※これの続き
十年前のあの日の夜、名前がぽつりと点けた小さな電灯に照らされて、一人声を漏らさないように歯を食い縛って泣いていたのを俺は知っている。
彼女が視線を落としたゴミ箱に綺麗な包装紙がグシャグシャになって中身ごと捨てられていたのも、それが誰宛の物だったのかも、全部知っていながら後一歩が踏み出せなかった、俺自身の意気地のなさも。
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スラックスのポケットにカードばかりが詰まった財布を雑に突っ込んで、俺は職場近くのスーパーの中をだらだらと歩いていた。
立春を迎えても街は当然まだまだ風が凍えるように冷たくて、スーパーに流れる安っぽい音のBGMを聞くと、暖かい場所にやって来たのだと何だかほっと出来る。
財布の中身を覗いて、適当な物を持ってレジへ。
サンドイッチ程度じゃ満腹にはならないけど、満腹になったらなったで眠気に襲われるから仕方ない。
パートのおばちゃんの威勢の良い声に見送られてレジを出ると、出口近くの商品棚の前に見覚えのある後ろ姿が見えた。
「─名前!」
一瞬肩を小さく揺らして、名前が振り返る。
薄いアイラインで囲まれた目は俺の姿を見ると、すっと落ち着いたように細められた。
「リュウジ。リュウジもお昼買いに来たの?」
「うん。だってうちの社員食堂ってさ、…あー…うん、アレじゃん?」
流石にズバッと言ってしまうのは気が引けたので、何となく要所要所を濁して答える。
うちの社員食堂は量はそれなりでリーズナブルな値段だが、味が少し、何というか、中々個性的だ。
それはさておき、彼女はこんなところで何をぼんやりしているのだろう。
何見てんの、と名前の背中から顔を覗かせると、赤やピンクや白や、女の子が好きそうな色の箱がずらりと並んでいた。
その隣にあったポップを見て、ようやく合点が行く。
「うわー…もうチョコレート売ってるんだ。バレンタインってまだ来週だよね?」
「まだ、じゃなくて、もう、なんだよ。早いところは2月頭から売ってるじゃない?」
そうだっけ。最近はデスクにかじりつきっぱなしでそんなこと気にしていなかった。
何となく目の前にあった抹茶色の箱を手に取り、そのリボンを目で辿る。
─あの時の箱は、もう少し薄い若草色だったっけ。
「そう言えばさぁ…名前たちって、いつもバレンタインは市販のしかくれないよね」
「市販の何が悪いの。貰えるだけマシでしょ」
ふと思い出したことをそのまま言うと、名前は少し不機嫌な顔になった。
「だってさ」と俺も何だかその反応を不満に思いながら、箱の縁を指でなぞる。
「就職してからも、ずーっとそうじゃない?いつも当日ギリギリの、値下がりしたの配ってさ」
「…その辺は経理担当に言ってよ」
それは無理な相談だ。
うちの経理担当、玲名のヒエラルキーは園にいた頃から変わっていない。まず自分、次に女子、最後に男子。腕っぷしも怒ったときの怖さも昔のままだから、下手に逆らえないのである。
そう、昔から。
─名前は今も、俺のことを好きでいてくれてるんだろうか。
あの時のチョコが俺宛だと知ったのは、ただの偶然だった。名前はリュウジに渡すんでしょう─そんなマキと彼女の会話をバレンタインの数日前に聞いたときは(別に盗み聞きしたわけではない、決して)、一瞬それが空耳か夢じゃないのかと自分の聴覚を疑ったものだ。
だけど名前から俺宛のチョコレートは貰えなかった。
勿論マキたちと一緒に市販のものは貰えたけど、俺が欲しかったのはそれじゃない。彼女がチョコレートを作るのに失敗して諦めたと悟ったのは、その日の夜中に名前が一人キッチンで泣いているのを見たからだ。
ゴミ箱に突っ込まれた包装紙からは、少し甘くて、焦げた臭いがしていた。
だけどそれを知って尚行動に移さなかった俺も俺だ。あと一歩の勇気が出なかった、と言えば良いのだろうか。
結果として俺の期待はずるずると十年間引きずったままになり、おかげでその間恋人なんて出来た試しがない(いや俺のせいだけど)。
(いい加減、我慢できないよ)
いろんな意味で。
心の中で溜め息を吐くと、ふいに一つの案が浮かんだ。
「─はい、名前」
「は?」
俺が放り投げたチョコの箱に、名前は寸でのところで反応する。
「これが何?」首を傾げる彼女に、俺は笑って─何とか余裕のある笑顔を浮かべて、答えた。
「それ、俺におごって?この前貸した300円、なしにするからさ」
「は…?別に、良いけど」
唐突に何を言い出すかと思えば─と言わんばかりの表情で、名前はちらりとそれを脇見する。
─もうちょっと、インパクトが足りないかな。
俺は声が震えないように明後日の方向を見ながら付け足した。
「これで、俺だけ名前から二つチョコが貰えるわけだよね」
「…何、それ。バレンタイン当日にも貰う気?」
一瞬、目を真ん丸にした名前はすぐに子供を叱りつけるような表情になった。
だけど大丈夫。彼女があの顔をするのは、大概照れている時だから。
(こんな癖も見分けられるくらい見てるのに、何で気付いてくれないんだろ…)
ここまで来ると不思議な話だ。
名前はレジにチョコを一つ持っていって、物の五分もしない内に俺の元に戻ってくる。
「はい、どーぞ」
「わーい」
これで第一フェーズは完了。
俺は箱をジャケットの内ポケットに滑り込ませて、ついさっき考えた台詞を素早く脳内でおさらいした。
「これで義理チョコは貰ったね」
「は?」
「当日は本命でよろしく」
畳み掛けるように言った俺に名前は一瞬考えることを放置したようで、文字通り凍ったように動かなくなった。
そのポカンとした顔が何だかおかしくて、それと同時に好きだと言う気持ちが溢れてきて、俺は持ち上がる口角を隠せないまま彼女の耳元で囁く。
「俺、待ってるから」
「っちょ─」
脱兎脱兎。制止なんて聞いてあげない。
名前の上ずった声を拾う耳はこれでもかと言うほど熱くて、少し自分が情けなくなった。
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─そんなことがあったのが、丁度一週間前。
名前はあの日以来面白いくらい俺を避けている。
俺からすると全然面白いことなんかないんだけどね!
「ああ、もう…」
「何だい緑川、急に大きな声だして」
溜め息と一緒に声を上げた俺に、社長、もといヒロトが目を丸くする。
ああ、自分が今社長室にいたこと忘れてた…と言うか、それもこれもヒロトが取引先の会社の女性社員たちからこんなにチョコを貰ってくるのが悪い。
「モテる若社長は良いですねーッ」
「何?誉めてもチョコはあげないよ」
誉めてないしケチ臭い!
俺はいよいよ不機嫌になって、休憩時間になったことも相俟ってさっさと社長室を後にした。
くそう、ヒロトなんて虫歯になってしまえ。
「あ」
「え」
目線の少し下で声がしたと同時に、肩に小さく衝撃が走る。
一歩二歩、衝撃に後ずさったのは丁度曲がり角から現れた名前だった。
「あ、名前」
「〜ッ」
「ちょっ、ちょっとぉ!?」
目が合うなり名前は首から顔を真っ赤にして踵を返す。
あ、今の顔かわい…とか言ってる場合ではなく。
「名前、…名前ってば!止まってよ!」
「あーっもううるさいッ」
カツコツカツコツ、名前のヒールがリズムカルに床を叩く。
その中に、ぱこん、と軽い音が混じった。
「あっ」
「え?」
白い床にぽつんと現れた箱は、どうやら名前の懐から今しがた滑り落ちたようである。
それを拾い上げるのは、一瞬俺の方が早かった。
「ね、名前。これさ…」
「………」
名前は俯いて俺から目をそらす。
俺の拾った手のひら大の小さな箱は、あの時見たのと同じ若草色をしていた。
「…ちゃんと、手作りしてくれた?」
「……お腹壊したって知らないから」
そんなこと言って、きっと壊したら壊したで目一杯心配してくれるに決まってる。
でもそんなこと気にしなくて良い。だって、待ちに待った彼女からの贈り物が美味しくないわけがないんだから。
一歩一歩、彼女との距離を詰める。
右手には箱を、左手には名前の手を。彼女は相変わらず俯いていたけれど、今度は逃げなかった。
「あのね、名前。俺、君にずっと言いたかったことがあるんだ」
チョコレート・アトナール
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