月に餅を突くうさぎはいない、と知ったのは小学校の一年生を半分ほど終えた頃だった。

「名字さんは本当に本が好きねぇ」

四十半ばを迎えた司書さんの柔らかい笑みに見送られて、私は図書室の更に奥、書庫へ続く扉を開く。
小さな窓が転々とついた書庫は電気を付けていてもどこか薄暗くて、ほのかに射し込む光に埃がちらほらと浮かんでいた。

書庫に置いてあるのは辞書や図鑑、古い文献なんか。棚に収まりきらず床に無造作に積まれた本を慣れた足取りで避けながら、私はいつも見る棚へ辿り着く。
司書さんは私を本が好き、と称したが、自分としては人並みだと思う。確かに本は嫌いではないけど、私が本当に好きなのは、星とか星座とか─とりわけ、夜空に浮かぶ月。
お昼はプラネタリウムにでも行かない限り星も月も見えないから、こうして昼休みになる度書庫に入り浸るのが私の日課になっている(書庫の本は貸出禁止なのだ)。

私はしばらく棚に並んだタイトルをざっと眺めて、少し古ぼけた天体図鑑を取り出した。
一枚ページを捲ると、ぱりぱりと皮を剥がすような乾いた音がする。ぱっと一面に出てきたのは、月齢一覧の写真だ。

「今日は…満月」

小さな窓を見上げると、青白く霞んだ空にぽっかりと白い月がクリームを一滴垂らしたみたいに浮かんでいる。
真昼の月はぼやけて、肉眼ではその月面まで見ることは出来ない。
今日はどんな模様が見えるのかな。そんな子供っぽいことを楽しみにし続けて、もう何年たったんだろう。

「─いてっ」
「?」

ふと私のぼんやりとした頭に、誰かの声が聞こえてきた。
書庫に入る生徒はそこまで多くはない。次いで、その声の主に思い当たるものがあって、私は入り口の方に足を向ける。

「…霧野くん?」
「あ、名字?やっぱりここにいたんだな」

あちこちに積み重なった本に足をぶつけながら書庫の奥へ進もうとしていたのは、クラスメートの霧野くんだった。
霧野くんは足元の本を避けては本棚にぶつかり、本棚を避けては足元の本にぶつかりを繰り返しながら、やっとこさという風に私の元に辿り着く。

「ふぅ。俺、初めて書庫に入ったけど、思ったより散らかってるんだな」
「いつもこうだよ、ここは」

霧野くんは男の子にしてはマメで授業に必要な辞書を忘れるようなことはめったにしないから(仮に忘れても隣のクラスに借りに行っている)、書庫に用事が出来るようなこともなかったんだろう。

「…? そう言えば霧野くん、どうして書庫に?さっき、やっぱりって言ったよね」
「ああ、名字に借りてた本、返そうと思って」

言って、霧野くんは小脇に抱えていた文庫本を私に差し出した。確かにこの本は私が先週これを読んでいたところ、霧野くんの目に留まりそのまま貸したものだ。
「俺読むの遅くって、返すの遅れてごめんな」と、霧野くんは少し眉を下げながら小首を傾げる。

「面白い本だったよ、それ。続き物なのか?」
「うん、あと二冊。良ければ持ってくるよ─でも、教室で渡してくれても良かったのに」

わざわざこんなところまで来てもらって少し申し訳ない。
そんなことを思いながら訊ねると、霧野くんは視線を左右に並んだ本棚にうろうろと移しながら、ほとんど口を動かさずに答えた。

「あ、いや…そうなんだけど、名字っていつも休み時間はどこか行ってるだろ?他のやつに聞いたら書庫だって言うからちょっと気になったと言うか─って、何言ってるんだろうな、俺!」
「? そっか」

霧野くんはあっちこっち視線を固定しないまま、何だか一人で慌てている。
いつも教室では穏やかに神童くんと話しているようなところしか見たことがなかった分、少し新鮮だった。

「えっと…名字が持ってるのって、図鑑か?」
「うん…天体図鑑。私、星とか月見るの、好きだから」

「そ、か」再び図鑑の紙面に目を落とした私に、霧野くんがやや掠れた声で返す。
そこでふと─私は思い当たることが出来て、霧野くんを見上げた。

「霧野くんは、月みたいだねぇ」
「…えっ?」

私はサッカーをしている時の彼を何度か見たことがある。教室とはまた違った、凛とした表情と声の霧野くん。
くるりくるり表情を変える彼は、見上げる国や人によって、その月面に何がいるか変わる、月によく似ているような気がした。
ある人にはうさぎに、ある人には蟹に。またある人には女の人の横顔に見えるように、彼にもまた私の知らない違う表情があるのだろう。

「私、空にあるもので月が一番好きなの」

私の笑った先では、薄く雲がかかって紅に染まった月みたいになった霧野くんが、星のように綺麗な目を真ん丸に見開いていた。


月面のうわさ話
休憩//20130501