名前が桜咲丈二と出会ったのは、もう8年ほど前のこと。6歳の誕生日を幾ばくか過ぎた頃の話だ。
その日の夕方、名前は父に連れられて企業同士の大掛かりな懇親会へ連れてこられていた。
名前が将来的に会社を継ぐかどうかはまださておいて、社会勉強の一環としてこういったパーティーを体験しておくのも良いだろう、というのが当時聞いた父の考えである。
パーティーという綺羅びやかな響き、背伸びを覚え始めた年頃ということもあって、見知らぬ大人たちに囲まれても、名前は人見知りする暇もなく心を躍らせていた。
そして彼もまた、同じような理由で会場に連れてこられたクチだったらしい。
あちらは名前とは逆に、大人ばかりの参加するパーティーにはあまり興味がなかったようで、どこか緊張した面持ちで父親のスーツの裾を掴んでいた。
名前はその頃、同じ年代の男の子という生き物がどうも好きではなかった。
騒がしくて下品で、自分の感情をコントロール出来ない者たちばかり。周囲の人間からすればまだ6歳児なのだからそんなことは当たり前ではあるのだが、他よりも精神の成熟が早かった名前にとって彼らはおしなべて『お子様』だったのだ。
──が、丈二は名前の抱くそんな男の子のイメージから、ほんの少し外れた子供だった。広い会場にいても決して走り回らず、騒がず、早く帰りたいと駄々をこねて親を困らせることもしない。
後になって考えれば、あれは親や周囲の躾が厳しかった故にあの場でだけ大人しく振る舞っていただけだったのだろう。その証拠に、彼の顔つき自体はやんちゃな子供そのものだった。
けれど名前からすれば、親に迷惑を掛けまいとする時点で丈二への好感度はかなり高く設定された。
次いで、丈二からすれば飾り立てた同じ歳頃の女の子相手に緊張していたのだろう。少し上擦った声で「こんばんは、よろしく……」と挨拶されて、何だか可愛らしい男の子だな、と感じたことは今でもハッキリと覚えている。
元々広い会場で唯一の子供同士である。他に喋る相手がいないことも相まって、名前は丈二とあっという間に打ち解けた。
丈二がサッカーが好きなこと、名前の父が元サッカー選手だったこと、名前の色々な習い事のこと、学校で流行っているもの。住む場所が遠いこともあり、馴染みの無い土地の話を聞くのは互いに楽しかった。
そんな子供たちを見ながら、父親同士はこんなやりとりを交わした。
「どうです? あの子たちがお互い年頃になっても良い人がいなければ、結婚相手にというのは」
「はは、悪くない話ですね。まぁ、本人たちの意思次第ですが……」
それを聞いて、名前は隣にいた丈二に視線を送る。丈二もまたキョトンとした顔で名前を見つめ返して、気恥ずかしそうに頬を赤くして目を逸らした。
その様子を見て、名前は直感する。
いつか大人になった彼と自分で、両親のような仲の良い夫婦になれたなら。父の言うようにそれはきっと『悪くない』未来なのだろう、と。
親同士の、ただ沈黙を埋めるための雑談の一環。まだ幼い子供からすれば、それがただの冗談か本気の話かなど判別は付けられない。
名前たちはその話をすっかり真に受けて──許婚の間柄となったのだった。
「──さん。鬼道さん」
名前を呼ばれると共に肩を軽く揺さぶられ、瞼を開く。
何度か瞬きを繰り返して、名前はゆっくりと頭を上げた。養護教諭が心配そうな顔でこちらを覗き込んで来ている。
「……私、寝てました?」
「ええ。いつからかは分からないけど」
眼鏡を押し上げながら頷く養護教諭に、そうですか、と掠れた声で返した名前はぐぅっと体を伸ばした。短時間でもソファに腰掛けたままの体勢で寝てしまったせいだろう、首の筋肉が少し凝り固まっている気がする。
何だか疲れが溜まっているな、と感じたのは3限目の時間帯だった。教卓に立つ教師の言葉が、右から左へ抜けていく感じがしたのだ。
これは良くない、と昼食を終えた昼休み、仮眠を取らせてもらおうと保健室を訪れたのだが養護教諭は留守にしていた。
養護教諭がいなければベッドを使ってはいけないというルールはないものの、流石に無言でベッドを使うのは憚られたのでソファでしばらく待たせてもらうことにして──いつの間にか、そのまま眠ってしまったらしい。
「生徒会、今が上半期で一番忙しい時期でしょう。きっと疲れてたのね」
「ええ……次々にやることが増えていくもので」
時期は夏休み直前。彼女の言う通り、生徒会は現在忙しさに追われている。
休み期間中のスケジュールも先んじて組み立てておかねばならないし、前期の予算会議も近い。
加えて、今はフットボールフロンティアの真っ最中だ。予選を突破した帝国サッカー部は、本戦中は学園のスタジアム内にある合宿所で泊まり込みで調整を行う。校内施設を一定期間泊まり込みで利用する場合、1週間に一度生徒会が監査に入らねばならない決まりがあるのだ。
サッカー部の監督が身内ならば、と今回その役は名前が一任されているので、合宿の日程についてアリスにも確認しておく必要がある。
姉さんがサッカー部のマネージャーになれば、監査のためだけにわざわざ来る必要もないのに──と長期合宿の度にアリスはぼやくが、義弟の可愛い戯れとして名前は毎回それをあしらっている。こういう時に限らず、アリスは定期的に名前をマネージャーに勧誘してくるので。
閑話休題。
兎にも角にも、ここ数週間の名前は酷く忙しくしていた。勿論、終わらなかった仕事を家に持ち帰って睡眠時間を削る──なんてことはしていないが、単純にオーバーワークだったのだろう。
「あら、横になっていかなくて良いの?」
「はい。少しスッキリしたので……お気遣いありがとうございます、咲山先生」
気遣わしげな視線に会釈を返し、失礼しました、と名前は保健室を後にする。
シャンと背筋を伸ばし、名前はキビキビとした足取りで長い廊下を歩いていく。確かに頭は昼前よりもいくらか冴えているものの、気持ちは何となく沈んでいた。
「(きっと、昔の夢を見たせいね)」
あのパーティーの終わり際、別れを惜しんだ丈二から提案されたのは文通だった。
自分用のスマートフォンはまだお互い持っていなかったし、電話では出来る時間に限りがある。手紙であれば話したいことを話したいだけ書けるし、好きな時に読めるから、と。
文通の頻度はまちまちだった。数日に一度来ることもあれば、月に一度程度まで減ることもある。日々あったことを共有していくことは手紙と言うよりも交換日記に近い。実際に交換日記をしたことはただの一度も無いが。
内容は取り立てて変わったものではなかったけれど、それでも文通をしている間は楽しかった。手紙が来るのが待ち遠しかったし、次は何を書こうかと悩む時間もまた楽しいものだった。
それなのに、と名前は溜め息を吐く。
去年の冬の終わり、中学校に進学する直前から丈二からの手紙は前触れもなくパッタリ途絶えてしまった。
1ヶ月目の内は我慢出来た。環境が大きく変わって忙しいのだろうと思ったから。
2ヶ月経つと違和感を覚えた。何か大きな怪我や病気をしたのかと心配して、体調を気遣う手紙を送ったけれど返事は来ず。
3ヶ月も経つ頃には、彼にはもう文通をする意思がないのではないかと思い始めた。文通をやめたいのであればせめてその旨を含めて一報寄越して欲しい、ともう一度手紙をしたためたけれど、それにすら返事はなかった。
文通をやめる気はないのか、──それとも、そもそも名前の手紙を読んでいないのか。二進も三進もいかなくなり、名前もそれ以来手紙を送っていない。
父伝に桜咲家の電話番号を調べてもらうという手もあるにはあったが、それをすると何だか自分ばかり相手を気にしているようで負けた気がして、結局そのまま身動きが取れず1年が経過してしまった。
「(……袴田くんに頼んで、夏休み中に長崎へ行く算段を着けておくべきかしら……)」
まだハルに宣言した半年までもう少しあるけれど。
こうなればもう、対面して問い詰めるほうが早いと思うのだ。彼がどういう了見で手紙を送ってこないのか、許婚関係を続けるつもりがあるのかしっかり確認がしたい。
「鬼道さん、何か怖い顔になってない……?」
「きっと疲れてるのよ。ほら、いま生徒会忙しそうだし」
クラスメイトが自分を遠巻きに見守りながら密やかにそんなやり取りをしていることには気付かず、名前は夏休みの計画を考えながら淡々と午後の授業を熟すのだった。