トントン、と自室の扉が控えめにノックされる。
デスクに向かって旅行雑誌を黙々と呼んでいた名前はその音に意識を引き戻され、咄嗟に返事をした。
「はい、どうぞ」
「──入るよ、名前」
扉の隙間からひょっこりと顔を出したのは母だった。
彼女はつい先程仕事に行くと言って出掛けたはずではなかったか。名前は不思議そうに首を傾げると、雑誌を閉じて母に向き直る。
「どうしたんですか、お母様。お仕事は……?」
「玄関先で、お手伝いさんがこれを持ってるのを見て戻ってきちゃった。直接渡しておきたいなって」
仕事はまだ時間があるから大丈夫よ、と母が微笑みながら見せてきたのは数種類の塾のチラシだった。『中学生向け夏期講習』と大きく印刷されたそれを見て、ああ、と名前は気のない声を漏らす。
「私は今の家庭教師でも間に合っていると思うのですが……」
「うん、私もそう思う。まぁでも、念のため目を通しておいてね」
苦笑を浮かべる母に、名前は目をゆっくりと瞬いた。
母は普段、名前の学力に関しては余程のことがない限り口出ししてくることはめったにない。両親によく似て名前は勤勉な子供だったので、そもそも口を出す隙がないのである。
故に、母がただこれを渡すためだけに玄関からわざわざトンボ返りしてきた理由が分からない。
そんな疑問が視線に滲んでいたのだろう、母は全てを見通した顔でニコッと口角を持ち上げる。
「……で、本命はこっち」
そう言って、チラシの一番下から取り出されたのは一通の白い封筒だった。
一見シンプルに見えるが、ワンポイントに花のモチーフが箔押しされた上品なデザインだ。隅の方に封筒の見た目とは反し角張った少し太めの文字で、──桜咲丈二、と差出人の名前が書かれている。
「それじゃあ、お母さんは改めてお仕事に行ってくるので……お留守番よろしくね〜」
「え。……あっ、はい。いってらっしゃい」
薄く口を開いて言葉を失った娘の手に封筒とチラシを預けると、母は軽く手を振り軽やかな足取りで部屋を去って行った。
パタン、と扉が閉じた次の瞬間、名前は急いでもう一度デスクに向かう。チラシを挟んで閉じた旅行雑誌をおざなりに隅に追いやって、取り出したペーパーナイフで慎重に封を開けた。
出てきた便箋は1枚だけ。名前はそろりと二つ折りになったそれを開く。
“名前さんへ”
──お久しぶりです。まずは、1年も返事を出せずにいてすいませんでした。家のことで少しごたついていて、手紙を書く余裕がありませんでした。細かい理由は伏せさせて下さい。あまり堂々と人に話せるような理由でもないので。
今回手紙を送ったのは、俺のスマホの電話番号とアドレスを伝えておきたかったからです。どのみち最近は部活が忙しくて、手紙を出す時間があまり作れそうになかったので、そっちの方が連絡が取りやすいんじゃないかと思いました。
1年も放っておいて、身勝手なのは分かっています。なので名前さんの気が乗らなければ、この手紙は無視してもらって構いません。
連絡待ってます。
“桜咲丈二”
「……」
フ、と短く息を吐く。
椅子の背もたれに体重を預けて、しばらく天井を見上げた名前は、もう一度手紙を読み返した。
以前まで貰っていたものと比べると、随分と短い手紙だ。白い紙面は何度も書き直したのか消しゴムを掛けた跡が残っている。
筆圧の強い字、出来るだけ丁寧に書こうという気概が感じられる文章を見ると、胸がギュッと締め付けられる思いがした。
「(私、自分で思っていたのよりもずっと、寂しかったのかも)」
思えば彼からの手紙は日常のひとつだった。それが欠ければ寂しさも覚えよう。──それが好いた相手なら、尚更のこと。
もう一度溜め息を吐いた名前は、傍らにあったスマートフォンを手に取った。
電話帳を開いて丈二の電話番号を登録し、早速電話を掛けようとしたところで、思いとどまる。
いきなりこちらから電話を掛けても、相手からすれば誰から来たか分からない番号は取らないのではないか。
というか、今掛けたところで電話に出られる状況かどうかも定かではない。
そもそもの話、散々待たせておいて受け身をとろうというのはあまりに都合が良い話なのではないか?
「(それに……こっちから電話を掛けるのは、何だか負けた気がする)」
名前は父によく似て負けず嫌いであった。
やがて彼女はメールボックスを開くと、タイトル部分に自分の名前を入力して新しいメールを作成した。
“鬼道 名前”
謝罪の気持ちがあるのなら、そちらから電話を掛けるのが礼儀というものです。
21時から23時の間であれば大抵空いています。
──最後に自分の電話番号を記入したメールを書き込んで、新しく登録したアドレスへ送信する。
些か温もりに欠ける文章になってしまっただろうか、と一瞬頭を過った考えはすぐに捨てた。あれで自分の怒りが少しでも伝われば、丈二も慌てて電話で謝罪してくるだろう。はたまた、怒りを買ったことで電話をすることを躊躇するか──いいや、そんなことはするまい、と名前は自問自答した。
「私の好きな人は、そんな意気地なしじゃありませんもの」
誰に言うでもなく呟いて、名前は手紙を大事に引き出しへ仕舞ってもう一度旅行雑誌を開いた。
§
「姉さん。さっきから随分と落ち着かないね」
「……そうですか?」
夜半、20時52分。
サッカー部の合宿に関する確認事項のためアリスの部屋を訪れていた名前は、ふと投げかけられた義弟の言葉に眉を軽く持ち上げる。
「夕飯の時からいやに時間を気にしているというか……」
「……9時からお友達と電話をしている約束をしているんです」
「とも……だち……?」
「何ですか、その反応は。私にだってお友達くらいいます」
片手で事足りる程度ではあるものの。
それ以前に『友達』という関係性でもないのだが、そこはプライベートな部分なので伏せておく。例え家族であっても、ある程度の線引は必要だ。
眠たげな目を丸くしてこちらを見てくるアリスを、名前は書類の束で軽く叩く。
「イタッ」
「これらに全部目を通して、必要項目にサインしたら月曜の放課後までに生徒会に提出すること」
「明日は日曜なんだから、それまでに姉さんに渡せば済むじゃないか」
「今週は家で仕事をしないと決めたんです」
時間は刻一刻と迫ってきている。名前は颯爽と踵を返すと、「月曜ですからね!」と釘を差してアリスの部屋を後にした。
足早に自室へ戻り、二人掛けのソファに腰掛ける。
ローテーブルの上にスマートフォンを伏せて、名前は壁の時計を見上げた。現在時刻は20時56分だ。
立ち上がり、本棚からてきとうな本を取り出してパラパラと捲る。内容は大して頭に入らない。本を取り出しては捲り、取り出しては捲り──と繰り返し、もう一度時計を見た。
針は21時を少し過ぎた頃を差している。スマートフォンはピクともしない。
「……何をしているんだか」
私らしくもない。呟くとすっと頭が冷めた感覚がして、名前は本を戻した。
よくよく考えてみれば、あんなメールを送ったからといって彼から今日この時間、必ず電話が来るとは限らないのだ。
明日かもしれないし、明後日かもしれない。──ひょっとしたら、永遠に来ないのかも。
そんな一抹の不安が胸に生まれた次の瞬間、ローテーブルのスマートフォンが見計らったかのように着信を訴えた。
「!!」
テーブルに飛びかからん勢いでスマートフォンを手に取る。
画面には『丈二くん』と表示され、呼び出し音が鳴り続けていた。
数度瞬きを繰り返し、名前は軽く深呼吸をすると努めて冷静な声で電話に出る。
「……はい、もしもし」
『っあ、えーと。……名前さんの電話、っすか』
鼓膜を揺らしたのは随分と低い声だった。名前は眉を顰め、もう一度画面を確認する。
「そうですけれど……丈二くんの、お父さんですか?」
『は? いや、本人だが……』
「ええ……?」
どうにもその言葉が信じられず、名前は思わず怪訝な声を上げた。
名前の知る丈二の声はもっと子供らしいというか、高かったはずだ。すると一拍おいて、電話口の相手は「あっ」と短く漏らす。
『最後に会ったの、ガキの頃だろ! 声変わりするに決まってんじゃねえか』
「ああ! 声変わり……!」
ようやっと納得出来る答えが返ってきて、名前は目を見開いた。そういえばアリスの声もここ数年で徐々に低くなって、今では元の面影もなくなってしまったのだったと思い出す。
「……丈二くんなんですか?」
『だからそう言ってるだろ……あんたが電話寄越せって言うからこの時間になるまで待ってたのに』
丈二はどこか呆れている風だった。まさか父親と間違えられるとは思ってもみなかったのだろう。そんなに似てるかな、とぼやく声は初めて会った時とはまるで違っていたけれど、拗ねた感じの声音は当時から変わっていない気がした。
「それじゃあ、気を取り直して……」
『あ?』
「まずは私に言うことがあるのではなくて?」
ぎし、と何かが軋むような音がする。腰掛けた椅子で姿勢でも正したのだろう。丈二は小さな声でぐう、と唸ると、数秒おいて言葉を紡ぐ。
『……1年も手紙が出せなくて、すまなかった』
「ちなみに、理由は?」
『う。い、言わなくちゃダメか?』
「堂々と人に話せる理由ではないと書いてましたね。……まぁ別に、話したくないのであればそれで構いません」
ゆっくりとソファに腰を落ち着け、背もたれに体重を掛けながら言うと丈二がホッとするのが気配で分かった。
「私は1年間、ず〜っと心配していたんですけどね」
『う』
「大きな怪我でもしたのかとか、病気でもしたのかなとか、ずっと気にしながらポストを毎日毎日見ていたんですけどね」
『ぐぬ……』
「もしかしたら嫌われたのかな、なんて思ったことも」
『ッそれは、ない!』
食い気味に大きな声が返ってきて、名前は思わずスマートフォンを耳から離す。
丈二は「ああいや、その……」と気まずそうにゴニョゴニョとしている。ふ、と名前は微笑んだ。
「じゃ、教えてくれます? この1年、丈二くんに何があったのか」
『…………だよ』
「はい?」
『だからその、……ぐ、グレてたんだよ。分かりやすく言うと』
ハア、と名前は呆けた声を漏らす。腑に落ちていないのが分かったのだろう、丈二は観念した様子で続ける。
『中学に上がる直前だったか。父さんにサッカーを辞めろって言われてな……』
「まぁ、どうして?」
『紳士的ではないからだとさ。どうせやるならテニスをやれだのなんだの……』
「それ、私に言います?」
『……そうだよな……』
名前の父は元プロサッカー選手である。引退した後も彼は深くサッカーと関わっているし、母だって数ある仕事の内の一つはサッカーに関連するものだ。何なら義弟は学校のサッカー部の監督で、名前もサッカーそのものはしてはいないがルールは把握しているし観戦するのも好きだ。
要するに、鬼道家はサッカー一家と言っても過言ではない。
『と、とにかく、それを切っ掛けに父さんの敷いたレールばかり歩くのが嫌になっちまって。どうにか反抗してやろうと、こう……気付いたら喧嘩に明け暮れたりしてて……』
「……私に手紙を書かなくなったのも、反抗の一貫だったと? お父さんに決められた関係だから……?」
『ち、違う。手紙に書けることがなかったんだ。言ったろ、喧嘩ばっかしてたって。そんなこと書くわけにもいかねえし……だからって嘘書くわけにもいかなくてだな……』
ぐ、と丈二はそこで言葉に詰まった。
『……あんたからすりゃあ全部ただの言い訳でしかないな。本当に、心配させて悪かった』
声がくぐもる。頭を下げているのだろうと何となく分かった。それが相手に見えるわけでもないのに律儀なものだ、と名前は呆れ混じりの笑みを唇に乗せる。
「ええ、全くです。これからは定期的な連絡を所望します」
『わ、分かった。……今は色々あって、父さんとも和解してサッカー部に入ってんだ。今の俺のことなら、あんたにも話せると思って……手紙を出した』
名前が微笑む気配を感じ取ったのだろう、丈二の声が柔らかくなった。緊張の緩んだ低い声は、心地よく名前の耳に届く。
それから二人は、空白の1年を埋めるかのように長いこと電話を続けた。
丈二の在籍するサッカー部は、紆余曲折ありつつもフットボールフロンティアに参加して順調に勝ち進んでいるらしい。
サッカー部を立ち上げた部長は後輩に当たるそうだが、これがまた中々癖のある人物なのだそうだ。
そして、次の試合に勝てば彼の学校──南雲原中サッカー部は、本大会へ参加するために東京へ赴くことになる。
「あら、じゃあ私の学校とも戦うことになるかもしれませんね」
『ああ……弟が監督やってるんだったか』
「ええ。……帝国と戦うとなると、学生監督対決が見れますね。楽しみです」
まだ試合をすると決まったわけではないが、互いにサッカー部のことを話し過ぎると敵に塩を送ることになりかねない。でも、と名前は話を変えるついでに思い至った考えを口にする。
「丈二くんが東京に来るなら、直接会うことも出来ますね」
『えっ。……ああ、うん。いや……どうだろうな。会うだけの時間が取れるのか……』
面食らった声を上げ、丈二はしどろもどろと言葉を濁した。実際、観光に来るわけではないのだから自由な時間は限られているだろう。
けれどそれにしては曖昧な反応だ。名前はムッと唇を尖らせた。
「あら、丈二くんは私に会いたくないんですか?」
『んなこたぁねえよ! ねえ、けど……いや、やっぱダメだ。会うのは別の機会にしてくれ』
一瞬揺らぎはしたものの、丈二は頑なだった。そこまで言うなら仕方ない、と溜め息を吐く名前に、彼はボソボソと続ける。
『その時は、俺が会いに行くから』
「……約束ですよ」
名前はちらりとデスクに置きっぱなしにしていた旅行雑誌を見やり、微笑んだ。どうやらあれの出番はまだまだ先になりそうだ。
そこで何と無しに視線を壁掛け時計の方へ向けた名前は、アッと声を上げた。
「いけない、もうこんな時間。ごめんなさい丈二くん、私そろそろ休まなければいけません」
『あ……? もう11時なのか……早えな』
丈二が僅かに驚いた声がする。丸2時間も電話していたのに、そんな感覚が全く無かったから不思議なものである。
『あー、っと……じゃあ、その……また、連絡する』
「ふふ、楽しみにしてます。……おやすみなさい、丈二くん」
『お、おう。……おやすみ、名前さん』
ぷつ、と通話が途切れる。暗くなった画面を見て、体を揺らした名前はそのままベッドに飛び込んだ。
「うふ。うふふ……」
胸がふわふわして、笑みが溢れて止まらない。彼にはああ言ったものの、果たしてこのまま眠れるだろうか? ──そんな不安も、今の満たされた喜びと比べれば些末なものだった。
「良い夢が見られそう……」
部屋の明かりを消して、柔らかな掛け布団を被る。
その瞬間、閉じた瞼の裏側に一つのアイデアがポンと舞い降りてきて、結局名前は次の日ちょっぴり寝坊したのだった。