某日、午前10時。お台場サッカーガーデン、練習用グラウンドにて。ベンチに腰掛けて、バインダーに挟んだ紙をゆっくりとめくる少年の姿がある。
昨日は強豪・帝国学園との接戦の末、南雲原は辛勝を収めた。
試合での疲れを出来る限り回復させるため、今日の練習は午後からの緩やかなスケジュールになっている、が──チームの監督である彼にはあまり関係ない話だ。
3日後はついに決勝戦。常勝・雷門イレブン、ひいては友人である円堂ハルとの対決になる。勿論、ハル以外の雷門イレブンも強敵だ。そのために出来ることは一つでも多くこなさねばならない。
「……やっぱり、練習時間はもう少し早くても良かったかな……」
呟き、少年は空を仰いだ。
青い空を飛行機雲が横切っていく。それをひとしきりぼんやりと眺めて視線を前方に戻せば、ふと誰かがグラウンドに繋がる階段を降りてくるであろう足音が聞こえてきた。
誰かが待ちきれずに自主練に来たのだろうか。そう思い、少年はベンチから立ち上がりそちらを確認する。
そこに立っているのは、見知らぬ一人の少女であった。
細やかなフリルをあしらった白いブラウスに、紺色のフレアスカート。レース仕立ての日傘を差した、いかにも『良いところのお嬢さん』といった出で立ち。
少年は不可解そうに眉を顰めた。部外者は基本的に、練習エリアへの立ち入りは禁止である。
しかしそれを指摘する前に、少女は日傘を軽く持ち上げて凛と口を開いた。
「──あなたが、私の“可愛い弟”を負かした少年監督の笹波雲明くん?」
§
「今日の練習はお昼からじゃなかったの?」
声に困惑を滲ませて、誰に言うでもなく忍原が疑問を口にする。
午前中、彼らはそれぞれ好きにサッカーガーデンを散策していたのだが、つい先程雲明からイナコードで連絡が入ったのだ。
“サッカー部立ち上げメンバー、急ですがグラウンドに集合してくれますか”
“どした雲明、何かあったん?”
“来れば分かるよ”
──そんなやりとりはあったものの、雲明は頑なにその内容を明かそうとしない。なので、半ば仕方なく彼らはグラウンドに向かっているわけである。
「何か嫌な予感がすんだよな……」
「え? 何ですか桜咲先輩、嫌な予感て」
鼻っ柱に皺を寄せ、呟く桜咲を木曽路が見上げる。
考えてもみろ、と桜咲は続けた。
「そもそも俺たち立ち上げメンバーだけってのも妙な話だし、詳細を一切寄越そうとしねえのも気に掛かる。あいつ、また何か変なこと思いついたんじゃねえか?」
「おい、雲明をトラブルメーカーみたいな言い方すんなよ」
「んで、何でテメーはここにいるんだよ……」
すかさず割って入って来た空宮に桜咲は呆れた目を向ける。
立ち上げメンバー集合ってあったろ、と眉を寄せる桜咲。事実、中途転入の形で北陽から南雲原にやってきた空宮はサッカー部のお家騒動には関わっていないので、雲明の指定したメンバーからは外れている。空宮はうーん、と一瞬考え込むと、やがてニカッと笑って答えた。
「何か面白そうなことが起きる予感がして!」
「ほら見ろ……」
絶対何かあるに決まってる、と桜咲は溜息を吐く。
そうこうしている内にグラウンドが見えてきて、一行は階段を降りていった。
「雲明〜、来たぞ〜」
ベンチには雲明ともう1人、誰かが座っているのが見える。見覚えのない後頭部だ。
木曽路の声に気付いたらしい雲明は立ち上がると、まずは1人立ち上がって仲間たちを出迎える。
「……あれ。征も来たの」
「うん! え、来ちゃマズかった?」
「いや、大丈夫。……あ、こちらがさっき話したうちのメンバーたちです。一部ですけど」
そう言って、雲明はベンチに腰掛けていたもう1人に話し掛けた。
するとその人物は立ち上がり軽くスカートの皺を伸ばすと、雲明の隣へ並び立った。
「……え〜と、どちら様……?」
見覚えのない、同世代の少女の登場に忍原が首を捻る。雲明の口ぶりからして、彼女を紹介するために自分たちは呼び出されたのだろう。
と、そこで間を置かず。
「……あ゛!!」
唐突に、桜咲が短くも仰天した声を上げた。
何事かと仲間たちが振り返ると、桜咲は唇をわなわなと震わせて少女を指差している。
「あ、あんた、まさかっ……」
「ああ良かった。久し振りに対面するから顔を忘れられてやしないかと心配してたんですが、その反応なら大丈夫そうですね」
「良かったですね」
口元に手を当て優雅に微笑む少女に、雲明がケロリとした様子で話しかける。
「何だよ、桜咲の知り合いか?」と二人の顔を見比べるようにして言うのは柳生だ。少女はそこで丁寧に小腰を折って、一行に自己紹介した。
「はじめまして、私、鬼道名前と申します。そちらにいる桜咲丈二くんの許婚です」
「あ〜、許婚……」
「…………許婚!?」
一拍空けて、異口同音の叫びがグラウンドに木霊する。
額に手を置き、空を振り仰いだ桜咲はしばし声にならない声を歯の隙間から漏らすと、顔を凝視してくる古道飼と木曽路を押しのけてずかずかと名前に歩み寄った。
「おいっ、あんた何でここにいるんだよ。会うのは別の機会にって言ったよな!?」
「あら、自意識過剰。私、別に丈二くんに会いに来たわけではないんですよ?」
「っああ?」
振られてやんの、と後ろで空宮が笑う声がする。大きな舌打ちをする桜咲に構わず、名前は隣にいた雲明を掌で差した。
「昨日の試合で、南雲原中が帝国を下したでしょう。弟がお世話になったお礼を兼ねて、監督さんに餞別を渡しに来たんです」
「一瞬、帝国が負けた腹いせに暗殺者でも寄越してきたのかと思いましたけどね」
「まあ、酷い」
実際、初めて目があった時の名前の眼光はそれはもう鋭いものであったが。
しかし、名前は実際南雲原に感謝していたのだ。帝国イレブンはアリスが監督となったことでほぼ負けなしのチームとなり、その油断が祟ったか最近どことなく弛んでいた部分がある。無名の南雲原に負けたことで、それが引き締めれられたのだ。
そのせいでアリスの『姉さんにマネージャーになって欲しい』おねだりが更に強まったのだが、そこは割愛する。
「餞別ってのは……」
「雷門イレブンの資料ですよ」
雲明はそう言って、小脇に抱えていた薄い書類の束と一枚のDVDディスクを顔を高さまで掲げた。
「今年の春先にあった、帝国との練習試合の記録です。ま、最も雷門は最近監督さんが変わってしまったようですから、戦術面でどこまで参考になるかは分かりませんが……」
「いえ、今は少しでも多くのデータが欲しかったので助かります」
そう言って雲明は軽く名前に頭を下げる。
えらく素直だな、と思った桜咲は口をへの字に曲げた。一体自分たちが到着する前に、二人はどんなことを話していたのだろうか。
互いに自分に関する余計なことを話してはいないだろうか、と不安になっていると、背後からひそひそと声がしてくる。
「あんな悪人みたいなツラの男に許婚って大丈夫? 相手の人、脅されてるんじゃないの?」
「た、確かに桜咲くんのご実家は大きな企業だが、そんな人の道にもとることはしないだろう。ちゃんとした正式な仲のはずだ」
「そういや桜咲って、良いとこのお坊っちゃんなんだっけ。柳生くんの方がスケール大きいから忘れてた。てことは柳生くんも……?」
「ばぁか、俺にそんな面倒なもんはいねえよ」
「柳生先輩に許婚なんていた日には女子ファンがみんな卒倒しますからね」
「僕、現実で許婚なんて関係のひと初めて見た……!」
肩越しに振り返れば、立ち上げメンバー4人と空宮が額を寄せ合って話し込んでいる。とは言えこの距離だ、会話は大方筒抜けであった。
「僕も正直言うと、悪い冗談かとも思ってました」
「あら。正真正銘、相思相愛の仲ですよ」
「ひゅ〜! お熱いねえ!」
「口笛やめろや……!!」
どこか感心した様子で言う雲明に、名前は照れもせずに答えた。柳生に茶化され古道飼には憧憬の眼差しで見られ、頭を乱暴に掻いて桜咲は大きな溜め息を吐く。
「こうなるだろうから来てほしくなかったんだよ……!」
許婚と格式張った呼び方はすれど、一般的に見ればそれは単なる恋人と大差ない。そうなれば仲間たちの一部は絶対にからかってくるに違いない、と踏んで名前にはああ言ったのだ。まともにフォローしてくれているのは案の定、四川堂ただ1人である。
「どーもどーも、俺、1年の木曽路です! 桜咲先輩にはいつもお世話になってます!」
「あっ、こら!」
するりと桜咲の横をすり抜けて、木曽路が頭をペコペコさせながらにこやかに名前に歩み寄る。こういう時の彼の行動は本当に素早い。
まぁご丁寧に、と名前は微笑んで小首を傾げる。
「丈二くんから窺ってますよ。後輩に、お調子者に見えて繊細で気遣いしいの優しいお友達がいるって」
「えっ……桜咲先輩、俺のことそんな風に思って……?」
「ッ名前さん!」
「へ〜、“さん”付けで呼んでるんだ。案外ちゃんと丁寧に接してる感じ?」
「う、うるせえな!」
ほんの少し頬を赤らめて嬉しそうにこちらを木曽路と、間髪入れずニヤニヤしながら口を挟んでくる忍原に桜咲は忙しく反応した。
「その感じだと、僕のことも何か聞いているんですか?」
「ええ、そうですね。確か……」
「だーーっ!! あんたちょっとこっち来い!」
その空気に悪乗りする雲明に名前が答えようとしたところで、いたたまれなくなった桜咲は名前の肩を抱えて仲間たちから数メートル引き離した。
手首などを掴んだら折れてしまいそうな気がしたのでそうしたのだが、華奢な肩を掌で掴むといやでも今の体格差を自覚して少しだけ狼狽える。
「言われるがまま変なネタ提供しようとすんな! 今後1週間は擦られるだろうが!」
「変なネタとは失礼ですね。丈二くんから聞いた話を伝えただけですのに」
「それは! ……そうなんだが!」
一端口答えしかけたところで、桜咲は思いとどまった。
1回目の電話をしてから早いことで半月程度。それから何度か電話でのやりとりはあったが、こういった言い合いで彼女に勝てたことは今のところ一度もない。
「……」
「な、何だよ」
ふと、突然名前が真顔になってこちらを見上げてきたので、桜咲は思わずギクリとした。
もしかしたら、掴んだ肩が痛かったのかもしれない。そう思い、彼女の肩に置きっぱなしにしていた慌てて手を離そうとしたのだが、当の本人の掌がそれを遮るように添えられたので反射的に動きを止める。
「いえ……丈二くん、本当に大きくなったなぁ、と」
「久々に会う親戚か、あんたは」
親類縁者の集まりに参加する度言われるのとほぼ同じセリフに、桜咲はげんなりと肩を落とす。名前は心外そうに眉を持ち上げた。
「ご心配なく。紛れもなく、あなたの許婚ですよ」
日に焼けて筋張った手は、名前の手首を掴んで指が余るほど大きい。出会った時は名前の方が高かった背丈は、今はもう随分と彼の方が高くなっている。
肩に掛かる手を両手で持ち上げて、名前はやにわに分厚い掌に頬を擦り寄せた。
「……もう、小さかった頃とは違うんだなと、思っただけです」
伏せた瞼を縁取る長い睫毛が、頬に影を落としている。柔らかな頬、桜色の唇の端が掌に圧迫されて少しだけ形を変えているのを見て、桜咲の喉からゴクリと音が鳴った。
「……そう言うあんたは、昔からあんまり変わらねえな」
「そうですか? プロポーションは中々良くなったと思うんですが」
「そうだな……いやそうじゃねえよ、何言わせんだ!」
思わず頷きかけたところで慌てて声を荒らげて、桜咲は小さく咳払いをする。乗ったのはあなたでしょう、という呟きは聞き流すことにした。
「出会った時から変わらず、綺麗なまんまだって話だよ」
ぼそりと呟くような言葉に、名前は目を瞬く。
そうして、彼女はそれに何か答える代わりに嬉しそうに微笑んだ。
「──すいません。良い雰囲気のところ申し訳ないんですが、そろそろ練習時間が迫ってて」
「うおわッ!?」
と、そこで背後から降って湧いたような雲明の声が聞こえてきて、桜咲は勢い良く振り返る。
「う、雲明お前、まさか今の聞いてやがったのか……!?」
「さあ? 聞かれて恥ずかしいことでも言ってたんですか?」
「くっ……!!」
そう言えばこいつもレスバモンスターだった、と唇を噛んだ彼の言葉はそれ以上続かなかった。下手に言い返せば十倍で返ってくる、それが笹波雲明という男だ。
「時間が過ぎるのは早いものですね。笹波くん、今日は突然のことだったのにお時間取ってくれてありがとうございました」
「いえ、お陰で面白いものが見られたので。練習は見ていかなくて良いんですか?」
「そうしたい気持ちはありますが、部外者が居座っていては皆さんも気が散るでしょうから」
「え〜、そんなの気にしないのに」
名前があまり話したことがないタイプの人間だったこともあり、興味を唆られたのだろう。忍原が残念そうに言う。
「ね、最後に一個だけ聞いて良い?」
「はい? 何でしょう」
そこで彼女は良いことを思いついたとでもいうようにニンマリと口角を上げ、名前へ続けた。
「桜咲って見た目は完全に不良! って感じでしょ。てことは、中身に惹かれたってことじゃん? あいつのどんなところに惚れたのかな〜って」
「おいッ、余計なこと聞いてんじゃねえよ!」
ギョッとした桜咲の腕が忍原の視線から名前を庇うように、あるいは名前がこれ以上余計なことを言わないように2人の間に割って入る。
「そうですね……」
名前はそんなことは気にも止めず、チラリと目を桜咲へ向けた。涼し気な視線を受けた桜咲の体が、ぎし、と強張る。
ややあって、彼女はニコリと微笑んで。
「誠実で、可愛らしいところに」
それじゃあ決勝戦頑張って、と最後に言い添えて──日傘を差した名前は、颯爽とグラウンドを去って行った。
数秒呆気に取られていた一行は、ゆっくりと桜咲を振り返る。桜咲は頭を抱えてしゃがみ込んでいた。
「かわ、いい……?」
「誠実はまだ分かるんだが……」
「可愛い……? この悪役ヅラが……!?」
「……うるせえぞお前ら!!」
顔に集まった熱を振り払うように勢い良く立ち上がった桜咲は、どよめく仲間たちを一喝する。
「(最後にとんでもねえ爆弾落としていきやがった……)」
多分、自分は彼女に一生敵わないのだろう。
瞼を閉じると機嫌良さげに日傘を回す彼女の後ろ姿が見えるようで、桜咲は本日一番の大きな溜め息を吐いたのであった。
end.