そして私たちは巡る
「あのチビッコ、大丈夫かな」
「大丈夫さ」
小さな来訪者が姿を消して、どれほど時が流れたか。二人にそれを知ることは出来ない。
宙に吐き出された言葉に、名前はクスクス笑いながら返した。
「確証でもあんのかよ」むっと眉根を寄せたアツヤが問えば、彼女はふと真面目な顔になる。
「別れる最後まで、夕香ちゃんは半分透けたままだったろう?あっちに魂が残ってる証拠さね」
「はぁ」
「もしも死んだら、ここではちゃんと私たちみたいにハッキリ見える」
そこまで言って、名前は一度口を噤んだ。
次に吐き出されたのは、消えるような声色だった。
「─私も初めは、そうだった」
「あ?」
アツヤは怪訝そうに目をしばたく。名前は力無く微笑むと、白い足先を見つめながらポツリポツリと語り出す。
「私は、小さい頃から病気していてね。よく、夕香ちゃんみたいに、ここに来ることがあった」
半分が透けた状態で。半分をあちらに残した状態で。
それはきっと、その度に病院のベッドで自分は生死の境をさまよっていたのだろう。今ではそれを確認する術なんか、無いのだけれど。
「─そしてそれを何度も繰り返したある時、気付いた。今まで透けていた足が、ここの白い地面をしっかりと踏みしめてることに」
幼いながらも、気付いた。
ああ、自分は死んでしまったのだと。
笑っても怒っても泣いても、誰も返事をしてくれないこの世界に捕まってしまったのだと。
「…………そんなこと、淡々と語るなよ」
ぼそりとアツヤが呟く。
名前は一瞬驚いたような顔をすると、次に薄く微笑んだ。
「勿論、今はアツヤがいるからここにいても寂しくはないよ。─まぁそれも、君がここを去ってしまえば終わってしまうけど」
「……じゃあ、名前も一緒に来ればいいじゃねーか」
アツヤは顔をしかめて名前を見た。相も変わらず、彼女は笑っている。
「それは─難しいね。アツヤは半分の問題が解決すれば、ここを離れられるけど……私にその条件は沿わないから」
「何だよそれ。じゃあ名前は、どうすればここから出れるんだよ」
「さぁ、何だろう」名前は首を捻って、その場に仰向けになった。見えるのはただ白い空間ばかりだ。
「……あ?」
ふいにアツヤが、顔を明後日の方に向ける。
どうした、と問えば、彼は狼狽えながら視線の先を指さした。
「そっち、から……何かよくわかんねーけど、何か音がする」
「…………」
名前の薄い唇が、僅かに震える。
数回、まばたきを繰り返した名前は、ギョッとした様子で音がするという方を凝視するアツヤに目をやりながら、立ち上がった。
「驚くことはないよ、アツヤ。……お迎えだ」
「は?」
呆けた声を上げたアツヤは、次の瞬間ハッとする。
首もとに、懐かしい感触。見下ろすと、ここに来てからずっと行方不明だった自分のマフラーが、堂々とそこにあった。
「兄弟は無事に問題を解決したみたいだね。良かった良かった」
「ま─待てよ、まだ良くねえよ!」
耳に届く音はだんだんと大きくなる。それは、名前の声をかき消そうとしているようにも思えた。
「だって、俺が行ったら……お前、一人じゃねーか!」
「そうだよ。でも、初めからそうだった」
「…………っ」
名前の細い肩を掴んで、アツヤは俯く。
「─お前は」絞り出されたような声に、名前は小首を傾げる。
「自分が何でここにいるか、知ってんのか……?」
「……んん、それは、さっきの質問と同じ答えになるな」
強いて言えば、と。名前は肩に掛かるアツヤの手をそっと降ろし、続けた。
「しあわせに、なりたかったからかな」
「……幸せ?」
「そうだよ」名前はゆっくりと頷く。
アツヤの足は、そこに縫い止められてしまったように動かない。
「生きてる時の記憶と言えば、病院で過ごしている時のことくらいだ」
病室の窓の外からは、いつもどこかの公園で子供が遊ぶ声がしていた。
傍らのサイドテーブルには、両親が買ってくれた絵本やスケッチブックやクレヨンが、すり減った状態で置かれていた。
生まれたばかりだった妹には、何回か顔を会わせただけで可愛がってやれなかった。
「……しあわせを感じる前にここに来てしまったのが、一番心残りだよ」
「…………そうか」
いよいよ音が、アツヤの耳を完全に満たしていく。
目と鼻の先にまで近づかなければ、名前の声が聞こえない。
「─じゃあ、幸せになれば良い」
「うん?」
アツヤは俯いていた顔を上げた。
「名前がここを出て、また俺と会ったら─そしたら、俺が名前を幸せにしてやる!」
きょとりと名前はアツヤの顔を見る。
「文句あんのかよ」と、喧嘩腰のアツヤに、名前は破顔した。
「─いいや、ない。ないに決まってる。アツヤが私を、しあわせにしてくれるんだね?」
「男に二言はねえ!」
胸を張ったアツヤに、名前は小さく笑った。
「そうか─それじゃあ私も、近い内に君を追いかけることが出来るな」
「おう。迷子になるなよ」
「その時はその時だ。アツヤが探してくれ」
言葉を交わすことなく、二人は小指を絡め合う。
名前にはアツヤの耳に届く音は聞こえない。だけど今なら、いつかきっと。
「またね、アツヤ」
「……ここ、どこ?」
夕日に照らされた道に、小さな声が響く。
見慣れない場所に独りきり。涙と嗚咽がこみ上げた。
「─おいおまえ!なんでそんなとこで泣いてんだ?」
「ひえっ」
いきなり背後から掛けられた声に、肩が跳ねる。
振り向くと、桜色の髪をした自分と同じ年頃の少年がサッカーボールを抱えてそこにいた。
「わ……わた、わたし、おうちわかんなくて……」
「なんだ、まいごかよ。だらしねーなぁ!」
「だ、だらしなくないもん……!」ぼろぼろと涙をこぼしながら顔をしかめれば、少年はギョッとしたように彼女に駆け寄る。
「きのう、ひっこしてきたばっかで……おうちのばしょわすれちゃっただけだもん」
「わかったわかった!なくなよ!─んー……なぁ、そのいえって、こうえんのまえのとこか?」
頭の上に疑問符を浮かべた少女が戸惑いながら頷くと、少年は「やっぱりな!」と自信ありげに笑った。
「おれんち、そこのとなりなんだ!おくってやるから、いっしょかえろーぜ!」
「ふえ……いいの?」
「いーの!」ふっくらとした紅葉のような手が、少女の手を掴む。
そういえば、と少年は振り向きながら、おずおずと自分に手を引かれて付いてくる少女を見やった。
「おまえのなまえ、なんてーの?」
「……わたし、名前。きみのなまえも、きいていい?」
笑顔で頷いた少年は、ぐるりと体を少女に向ける。
二人の小さな体躯は夕日に照らされ、道に伸びた影法師は随分と背が高くなっていた。
「おれは、アツヤ。よろしくな、名前!」