私の働いている喫茶店は、緑が綺麗な公園の前に佇んでいます。
赤茶色の屋根と、ブラウンの煉瓦が組み合わされた壁。
一見重たそうな扉を開けると、可愛らしいベルがお出迎えしてくれます。
その本の中から飛び出したような風貌の喫茶店に一目惚れをして、アルバイトとして働きはじめたのはつい三ヶ月ほど前のこと。
今では店長や他の店員のお姉さんともすっかり仲良くなり、楽しく仕事をしています。
そんなある日のこと。
その日は生憎の雨模様で、エプロンを着てきた私に店長がこう言いました。
「名前ちゃん、倉庫の看板を出してきてくれるかい」
「あ、わかりました」
店長が言ったのは、『お足元が濡れているのでお気をつけ下さい』と書かれた看板のことです。
よく、スーパーやデパートの入り口にも雨の日に置かれているものですね。
私は倉庫からその看板を持ってきて、お店の入り口に置きました。
傘立ての具合もきちんとチェックして、これでお客さんが来ても安心です。
よし、と頷いて店内に戻ると、丁度窓越しに雨の中を小走りにやってくる人が見えました。
本日はじめのお客さまです。
ちりりん、と鳴るベルの音に一瞬耳を傾け、私たち店員は「いらっしゃいませ」とマニュアル通りにご挨拶。
お店に入ってきたその人は、服の雨粒をハンカチで拭きながら、少し安心したようにふぅと軽く息を吐きました。
夕日のような明るい髪の色をした、綺麗な男の方です。
(あの制服は確か、天河原高校の……)
私は伝票を用意しながら、何となく記憶を探りました。
お盆にお冷や、それからお絞りを乗せて、メニューを開いた彼の元へ急ぎます。
「いらっしゃいませ、ご注文がお決まりになられたら、申し付け下さい」
「あ」
一瞬こちらを見上げた彼はまばたきを繰り返すと、「は、い」と少し掠れた声で言いました。
雨の中を走ったから風邪を引いたのでしょうか、心配です。心なしか、ほっぺたも何だか赤いような。
「あ、あの」
「? ご注文お決まりですか?」
カウンターに向かおうとすると、彼が私を呼び止めました。
う、と何か言いよどんだ彼は慌てたようにメニューを開きます。
「じゃあ、これを……」
「コーヒーですね、かしこまりました!」
彼が頼んだのはブラックのコーヒー。伝票にペンを走らせ、会釈した私は今度こそカウンターへ戻ります。
「コーヒー、一つ入りました」店長に伝えると、彼は深く頷いてサイフォンの用意をしました。
余談ですが、店長のこのサイフォンはわざわざ海外から取り寄せた特注品だそうです。
私はまだまだ修行が足りないのかそのサイフォンの良さはよく分からないけど、これで煎れたコーヒーがとてもおいしいことはよく知っています。それは多分、店長の腕のおかげでもあるのでしょう。
真っ白で深いカップに、並々と注がれる真っ黒のコーヒー。
それをお盆に乗せて、私は再び彼の待つテーブルへ向かいました。
熱いのでお気をつけ下さい、とカップをテーブルに置くと、彼は小さく頷きます。
「では、ごゆっくりどうぞ」
「ど、どうも…」
彼と目が合ったのは、初めの一瞬きり。
くるりと長い睫毛に縁取られた瞼をちょっと伏せ、彼は会釈しました。
「名前ちゃん、お皿洗い頼んだよ」
「はーい」
茶葉の瓶を並べる店長に頷き、私は裏のキッチンへ行きます。
それから三十分ほどして戻ってみると、彼の姿は既になく、代わりに空になったコーヒーミルクの容器が一つ、ポツンと置いてありました。