「いらっしゃいませー」
今日はあの日のように雨降りです。
しかし土砂降りというわけではなく、所謂通り雨。
雲の切れ間から差し込む太陽の光を浴びながら、さらさらと粉砂糖を振りかけるような細かい雨を見て、奥さんが呟きました。
「狐の嫁入りね」
狐の嫁入り。聞いたことはあります。…聞いたことがあるだけでどんな意味か忘れてしまいましたが。
同じ心境だったらしい先輩が、「狐の嫁入りってどういう意味でしたっけ?」と尋ねました。
「まさしく今の光景ね。日が照っているのに、雨が降る天気のこと」
「へー……」
「嫁入りねぇ」と呟いた先輩が、はぁと重たい溜息を吐きます。
「私には縁遠い言葉だわ……」
「そんなことありません!先輩は素敵な方です!」
思わず口を挟むと、先輩はにやーっと口を緩めて「そんなこと言ってくれるの名前ちゃんだけよ」と私の頭をぐりぐり撫で回しました。
その時、ガラス越しからこちらにやって来る人影を見て、奥さんがキッチンへ戻っていきます。
「おっ。お嫁さんのお迎えに来たかね」
先輩が何か言ったようでしたが、ベルの音で聞こえません。
入ってきたのは、いつもの彼─Kさん(仮)でした。
どうやらまた傘を忘れてしまったようで、彼はハンカチで肩口を拭きながらいつもの席に座ります。
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
「……コーヒーで」
私が尋ねると、彼は決まって少し視線を逸らしてそう答えるのです。
これは、いつか常連さんだけに許された「いつものお願いします」という注文を彼が会得するのも時間の問題かもしれません。
「本日はサービスでマカロンがお付けできますが、どうなさいましょう?」
「え、あ。じゃあ、それも……あ」
突然、彼が私の顔をしっかと見据えました。
彼の口が、ポツリと「ヘアピンが」と呟きます。
「あ」
側頭部に触れて、私は思わず小さな声を上げました。
さっき先輩に撫でられたせいでしょうか、ヘアピンが少しおかしな方向に浮いています。
慌ててそれを手で隠して、私は苦笑いしました。ああ、恥ずかしい。
「す、すいません。ありがとうございます」
「い、いいえ」
そそくさとカウンターに戻ると、先輩がばつの悪そうな笑みで手を合わせました。
ごめん、のジェスチャーに私は頭を振って、裏手のトイレに回ります。
「あー……」
鏡をのぞき込むと、予想した通りヘアピンは本来の意味をなさずに面白いことになっていました。
手早くそれを元に直してお店に戻ると、丁度奥さんからコーヒーとマカロンを渡されます。
ちなみに本日のサービスにマカロンが付いてくるのは、このマカロンが奥さんの作った試供品だからです。
店長曰く、好評だったらキチンと商品としてメニューに追加するのだとか。
「お待たせしましたー」
テーブルへ向かうと、彼は少し虚を突かれたように読んでいた文庫本を閉じて、私を見上げます。
そして先程のヘアピンを見たのか、ふと小さく息を吐き出しました。
そして、また視線を逸らしたかと思うと。
「あ、の。さっきはすいません、でした」
ふいに、口を開いてぼそりと言いました。
はたと動きを止めてしまった私は、慌てて首を横に振ります。
「いいえ、こちらこそお見苦しいものを……では、ごゆっくりどうぞ」
「……どうも」
改めてテーブルにコーヒーとマカロンを置くと、彼は一点を見つめながら小さく返しました。
そう言えば、初めて彼と会話らしい会話を交わした気がします。