「へぇっ、そんなことがあったんだ」

いつものアルバイトの日。
キッチンの裏手で、先輩が興味深げな声を上げました。
先日の休日、私の身に起こったことをお話をしたのです。

「で、名前ちゃんはその人に改めてお礼をしたいわけだ?」
「そうなんです、でも……名前が分からないままのものだから」

私は思わず溜息を吐きました。
そう、私を助けてくれた彼の名前は、未だ分からぬまま。
一度お礼は言ったもののあのままでは大変なことになっていたのかもしれないところを、寸でのところで助けていただいたのです。
これは何としても、誠意を持ったお礼をしなければ私の気が収まりません!

「しかしねぇ、ナンパされてたところを助けるなんて……今時、そんなマンガみたいな勇気持ってる奴もいんのね」
「はい、とても素敵でした!」

普段お店で見かける彼は落ち着きのある好青年に見えるのに、あの時の鋭い目はまるで戦いに出た戦士のようでした。
きっとあんな人を王子さま≠ニ言うのでしょう。

「ほうほう。名前ちゃんにも遂に春が来たってことかな?」
「え?先輩、今は初夏ですよ」
「いや、……ああ、うん。そだね、君はそういう子だった。うん」

先輩はよく分からないことを言って、一人で呆れたように溜息を吐きます。
はて、私は何かしてしまったのでしょうか。

首を捻って窓に目をやると、パラパラと小雨がガラスを打つのが見えました。
「名前ちゃーん」店長の言わんとすることも、もう分かります。

「看板、立てて置いてくれないか!」
「はーい!」

私は大きく返事を返して、看板を取りに向かいました。
こうしていると、初めて彼と会った日のことを思い出します。

看板を立てて戻ってくると、奥さんが私を手招きしました。

「名前ちゃん、ちょっとこれ食べてみてくれない?」
「何ですか?」

奥さんが差し出したのは、真っ白い粉砂糖が掛かった、何やら半球体のものでした。
あまり見たことがない形ですが、香りからしてどうやらチーズのようです。

「チーズズコット。この間から研究してたんだけど、一番良い出来のができて!ね、味見お願い」
「え?でも、そういうのは始めは店長から……」

こういう、まだお店にだしていないスイーツの味見をするのは店長のお仕事のはず。
だけど奥さんはケラケラ笑って言いました。

「実はね、あの人チーズだめなのよ」
「えっ、そうなんですか?」

それは初耳です。店長にそんな弱点があったとは…さすが奥さん、旦那さんのことはしっかり把握しているのですね。
自分でもよく分からない感動を覚えながら、私は奥さんに渡されたフォークを握りしめました。

「では、僭越ながらいただきます……!」
「ふふ、どうぞ」

真ん中からフォークで食べる分を割ると、スポンジとは思えない柔らかさ。ふわふわできめ細かいスポンジもまた、芸術です。
先輩が羨ましそうにこちらを凝視しているのを視界に入れながら、私はチーズズコットを口に入れました。

「……」
「名前ちゃん?」
「おっ、おいしいです……!!」

何でしょう、この未知の体験は。
ふわふわで口の中でとろけて、チーズの酸味と砂糖の甘みがドッキングして、何て言うか、もう。

「奥さん……これはもう、お店に出すしかないです!いいえ、出しましょうっ!!」
「あらあら、そんなに気に入ってくれたのね。嬉しいわ〜」

奥さんは頬を緩め、「あなたもどうぞ」と先輩にもお皿を差し出します(先輩は待ってましたとばかりに飛びつきました)。
今までに食べた中でも最上級の美味しさでした……幸せです。

「じゃあ、そうね……材料費を予算に組んで、一週間後には出せるようにしましょうかしら?」
「えっひゃいふぉーふるべきっふひょ!(絶対そーするべきですよ!)」
「先輩、飲み込んでから話さなきゃダメですよー」

ごっくん、と口の中を空っぽにした先輩は、「最ッ高」と呟いて満足げにお腹をさすりました。
ふとその時、嬉しそうに笑っていた奥さんが「あら」と声を上げます。

「ほーら、二人とも。お客様よ、仕事仕事!」
「はぁい」

慌ててお店に出た私は思わずその場でたたらを踏みました。
「おっと」様子の変わった私に気がついた先輩が、何やらニヤリとして小声で囁きます。

「ほら、ベストタイミングだよ名前ちゃん!」
「は、はい……!」

扉をくぐり、一番奥の席に座ったのは私を助けてくれた彼でした。
今日もまた雨に降られてしまったのか、紺色のハンカチで制服の肩口を拭いています。

しかし、せっかく話しかけるチャンスだというのに、どうしたことでしょうか。
胸が何だかドキドキして、足がうまく動きません。
先輩が私の顔をのぞき込んで、ニヤニヤ笑いを深めます。

「あれぇ、どしたの名前ちゃん。顔赤くして」
「せ、先輩……私……」
「うんうん」
「私……実はすごく上がり症だったようです……!」
「……」

先輩はどうしてか遠い目をしました。
理由は分かりませんが、とにかくファイトです私!ファイッ、オー!

ふーっと一つ大きく息を吐き、私は歩を進めました。

「あっ、あの!」
「え、あ……名前、さん」

彼は私に気がつくなり、さっと顔を赤くして(何故?)ぺこりと会釈します。
私もそれに会釈を返して、そのまま続けました。

「その、先日は本当にありがとうございました!それで、あの、改めてお礼をさせていただきたいのですが!」
「えっ?」

緊張のせいか早口になった私に、彼は一瞬キョトンとすると、小さく笑います。

「そんな、良いんですよ。俺が勝手にしたことだし」
「でも、本当に助かったんです……」

あのままだったら、どこか知らない場所に連れて行かれて悪いことをされてしまう(先輩談)ところを救っていただいたのに。
しょぼくれた私に、彼は「律儀だな……」と呟くと、何か考え込むように目を伏せました。

「……じゃあ、一つだけお願い、しても良いですか」
「! はい、何なりと!」

約十秒は経ったでしょうか。
ようやく口火を切った彼は、視線を横に反らしながら思い切ったように言います。

「その……お、俺と、友達になってくれませんか……!」
「えっ」

今度は私がキョトンとする番でした。
あっ、と声を漏らした彼は顔を真っ赤にして俯きます。

「あの、別に、無理にとは言いませんがっ」
「いいえ!嬉しいです!」

思わず声を大きくした私に、彼は驚いたように顔を上げました。

「ほ、本当に?」
「嘘は吐きません!」

表情を引き締め胸を張ると、彼は「ありがとう」と小さく言ってはにかみます。
その顔に何だか私は胸が暖かくなって、さっきのチーズズコットを食べたときのような幸せな気分になりました。

「えっと……そういえば、まだ名前を言ってませんでしたね。俺は喜多一番です、好きに呼んで下さい」

そう言った彼が、そっと片手をこちらに掲げます。
私はその意味をくみ取って、ぎゅっとその手を握りました。

「改めまして、名前です!これからもよろしくお願いします、喜多さん!」

私の目をしっかとみた彼─喜多さんは、頬を染めて綺麗に微笑みます。

街の一角にある、小さな喫茶店。
幸せと出会いをくれる素敵な場所で、私は今日も頑張って働くのです。