その指先で僕に触れてよ
「降ってきたな、雨」
授業を終え、掃除時間の半ば。気だるげに床を箒で掃いていた名字が、窓の外を見上げながら呟く。
つられて同じく外を見ると、確かに細い雨がポツポツと地面を濡らしていた。
眺めていると、雨はやがて小粒から大粒へ。窓を叩く強さも大きくなっていく。
「うわ……」
「名前ー、剣城くーん」
ふと、並べて名前を呼ばれて振り向くと、こちらに向かって手を振る空野が廊下の窓から半身を覗かせていた。
「葵。どした?」
「音無先生から業務連絡よ。今日はスタジアムも整備で使えないから、部活は中止だって」
「ええ……」
呻いて、名字は「まあこの雨じゃな……」と外を一瞥する。
「影山くんは? クラス、一緒だよね」
「あいつは職員室の掃除。いーよ、私が言っとく」
「そっか、ならお願い。私まだ天馬たちにも伝えなきゃだから」
じゃあね、と空野は用件を伝えると足早にそこから去っていった。
マネージャー三人で、部員全員に業務連絡しなきゃならないのか。中々手間のかかることをしている。
「イナッターか、イナリンク使えば良いんじゃないのか」
「ああいう急な連絡は、気付かない人もいるから直接言う方が早いんだと。春奈姉さんが言ってた」
姉さん──そう言えば、こいつと音無先生は親戚だったか。いつか松風たちに聞いたことがあった。
「聞いたぞ、二人とも」
突然、背後からぬっと影が差す。
驚いて振り向くと、担任が何やら胡散臭い満面の笑みを浮かべて俺たちを見下ろしていた。
「剣城も名字も、今日は日直だったよな?」
「? はい……そうです、けど」
黒板の日付欄の下に書いてあるのは、確かに俺たちの名字だ。なので朝からやるべき仕事はやっている。
時間帯が時間帯だ、あとは日誌を書いて提出するだけなのだが──
「放課後、やって欲しい仕事があるんだ。頼まれてくれるな?」
その問いに、俺たちに拒否権は与えられなかった。
「あ〜あ。かったるいかったるい」
「口じゃなくて、手ぇ動かせ」
ばちんっ。
手にしたホッチキスが音を立てる。
1から15、ページを揃えて両端を二ヶ所づつホッチキスで固定。それの繰り返し。
表紙になるページには、『学年野外学習』と言う文字が印刷されていた。
「なぁんで先生もこんな仕事押し付けるかな……職員室に何か業務用の機械なかったけ? 冊子作れるやつ……」
「知らねえ」
でも、言われてみるとそれらしい物を見たことがある気がする。
1から15、確認して、留め……。
「くそ、ずれた」
「ざまぁ」
「……お前それ、裏表紙逆だぞ」
「え? ……あっ」
1クラス大体、30人後半。それ掛けるクラスの数で、一体あと何冊作れば終わるのか。
そんな計算は、担任から山のように積まれたプリントを預けられた時点でとうに諦めていた。
雨足は激しくなるばかりで、外は最早嵐と言っても過言ではないほど荒れている。教室には今俺たちしかいないが、他の校舎内にいる生徒たちもそろそろ帰宅を考えているだろう。
太陽も分厚い雲に覆われているせいで、外はほとんど夜のような暗さだ。これはいよいよ雷でもなりそうな勢い──
「っきゃ!?」
ごごごん──バツン!
突如、鳴り響いた轟音の直後、弾けるような音がして教室の電気が消えた。
停電だ。が、しかし、俺の目は数度のまばたきですぐに暗闇に慣れてしまう。
……なるほど、吸血鬼は夜行性。こういう時に役に立つのか。
冷静に考えている一方で、短く悲鳴を上げた名字はまだ混乱しているようで。
「ちょ、何? 何? 停電っ?」
「落ち着け」
多分今の雷で電線か何かがいかれたのだろう。学校なら非常用の発電機か何か置いてあるだろうし、すぐ復活するはずだ。言うと、名字はホッと息を吐いて竦めていた肩を下ろす。
「何だよもう……脅かすなっての、ったく──いたぁッ!?」
「!?」
今度は俺が驚く番だった。
名字は何か怪我でもしたのか、「いったぁ」と呻きながら手を抱えている。
流石に夜目が利くと言っても限度はあるものだ。名字が何をどうしてそうなったのか、一部始終見ることは出来ない。
と──思っていると、予想していた通りパカパカと点滅した電灯が、光を取り戻した。
「おい、どうした──うわ」
「うわって言うな……」
顔をしかめ、名字は右手を押さえている。
人差し指に、ホッチキスの針がぶっすり刺さっていた。
「早く抜け、見てる方が痛い。と言うかどうしてそうなった」
「さっき留めるの失敗した冊子に手ぇ突いたら…………く、う!」
ぎゅっと目を瞑り、思いきったように指から針を引き抜く。どうやらあまり深く刺さってはいなかったようだ。
針の抜けた小さな穴から、ぷつりと赤い血の玉が盛り上がる。
(…………あ)
ざわ、と肌が総毛立つ。
寒気ではない、悪寒でもない。
これは──
「あー、痛かった……ちょっと洗ってく、……剣城?」
「……え。あ」
気付くと、俺は名字の手首をしっかりと手に取っていた。
(今、完全に無意識だった)
何をするつもりだったのか、自分でも分からない。分からないが──予想はつく。
か、と顔を熱くした俺に、名字は目をまたたいた。
「…………飲みたいの?」
「!」
図星を突かれて、押し黙る。
名字は曇りの無い目で真っ直ぐ俺を見た。
「飲みたいなら。良いよ、飲めば」
「……良いのか」
「いつかこう言うことが起きるんじゃないかって、覚悟はしてたからな」
どんな覚悟だ。だが、今はそれがありがたい。
文字通りその言葉に甘え、俺は名字の手を持ち上げた。
「う、……」
乾ききっていない血に舌を伸ばし、細い人差し指の先を咥えると、名字は僅かに眉根を寄せる。
じわ、と口内に甘い味が広がったのを確認して、──止血のため、と思いながら傷口に舌を這わした。
「ん、やっ」
次の瞬間、か細い声を上げた名字が、俺の手から慌てたように指を引き抜く。
手を守るように胸の前で抱えて、名字はいつの間にか真っ赤になった顔で俺を睨んだ。
「な、何で今最後舐めた」
「いや、止血に……」
「……」
「……確かに治ってるけども」自分の人差し指をしげしげ眺め、名字は不満げに唇を尖らせる。
「でも、何かイヤだ」
「何だよ、ちょっとしか舐めてねえんだからそこまで汚くないだろ」
「違う、前の時もだったけど、舐められると、何か……」
こく。そこで名字は一度、息を飲み込んだように見えた。
「……ぞくぞくして、変な感じがするからイヤだ」
「…………」
それは、具体的にはどういうことなんだろう。
けれど何となく、名字の言う「イヤ」は『嫌悪』とは違う気がした。
ぞわ、とまた総毛立つ感覚がする。
今度、吸血鬼としての本能は多分関係ない。顔を赤らめたこいつに、俺が──
「ああ、二人とも。やっぱりまだ残ってたか」
「!!」
がらりと脈絡なく扉が開いて、担任が戻ってきた。驚きすぎて声を上げる暇もない。
と言うか、今。
(物凄く変態くさいことを考えてた気がする……!!)
本当に刹那のことだったから、明確には覚えていないが。……いや、忘れよう。
「まさかこんなに天気が悪くなるとはな。あとはもう良いから、二人は雨が収まってる内に帰りなさい」
「は、はい」
外を見てみると、確かに雨足は若干弱まっているように見える(あくまで若干≠セ)。
そう言うなら初めから頼むなっての──赤いままの顔で、名字が小さく毒づくのが聞こえた。