のみこむガラスで喉を焼く
一瞬、くら、と足元がふらついたような気がした。
「剣城、どうかした?」
「……いや」
様子に気が付き振り向いた松風に頭を振る。これが名字だったら、嘘を吐くな、と一蹴されるところだろう。
(もう、一ヶ月経つのか)
ちらりと部屋の隅に貼ってあるスケジュール表に目をやって、出そうになった溜め息を押し殺した。
日付欄には小さく、月齢が一つずつ簡略化されて描かれている。
今月の満月は、明日だった。
いつもなら部活の時間帯は当然サッカーのことばかり考えている。
だが、今回ばかりは例外だ。
現在、俺の頭は『明日どのタイミングで名字に血を貰うか』と言う事柄が大半を占めている。
先月のように、保健室が体よく無人なわけもない。俺たちが会える場所は限られている。学校以外の場所となると、難しいだろう。
「剣城くん、行ったよ!」
「!」
視界に飛び込んできたボールを、反射的に蹴り返した。
が、少し力が入りすぎたのか、大きく弧を描いて飛んで行ったボールに、影山が慌ててそれを追いかけていく。
「悪い……」
「う、ううん、だいじょ、ぶ」
思った以上に遠くへ行ったボールをやっと抱えて戻ってきた影山は、息を切らしながら汗を拭った。
「剣城!」ふいに、円堂監督が自分を呼ぶ声がしてギクリとする。
「お前、何だか今日は動きが固いな? どこか痛めたか」
「いえ……特には」
そう、どこも痛めてなんかない。
強いて言えば考えなきゃならないことが多すぎて頭が痛いが。
円堂監督は少し首を傾げて「なら良いが、無茶はするなよ」と鬼道コーチとの話に戻った。
(今は、サッカーに集中しよう)
明日のことは勿論大事だが、これ以上注意力を散漫させて周りに迷惑を掛けるわけにも行かない。
とりあえず、名字には帰り際にでも話を──
「……何をしてるんだ、あいつは」
「え?ああ、名前は休憩中だよ。化身出せるようになるまでにも結構体力使うよね」
「いや、そうではなく」
一人、グラウンドの外れにあぐらを掻いた名字は、何故か猫と戯れていた。
あの猫は確か、武道館裏に住み着いていた野良猫だったはずだ。鶏の入った飼育小屋を、食い入るように凝視しているところを何度か見たことがある。
「そう言えば名前って、猫っぽいとこあるよね」
「ああ〜、分かる分かる」
タオルを持ってくるついでに思い付いたように言った空野に、松風が頷いた。
気紛れで、特定の人間にしか懐かず、気付くとフラリとどこかに消えている。
そう言われると、確かに猫っぽいかもしれない。
「小学校の頃の昼休みとか、教室にいない時は大体屋上で居眠りしてたよね」
「うん、人に見つからないようにタンクの後ろとかで」
何と言うか、行動がほぼ野良猫のそれだな。そう言えば、一度木の上から飛び降りてきたこともあったか。今思うとあれも中々猫っぽい。
本人は旧友がそんな話をしてるなんて気付いちゃいないだろう、名字は相変わらず猫を膝に乗せて、耳の辺りを指で撫でている。
「でも、狩屋も猫っぽいよね。悪い意味で」
「ちょっと天馬くんそれどう言う意味!?」
それから二人の話題は狩屋にシフトして(標的が変わったとも言う)、名字は休憩が終わったのか猫を放して鬼道コーチの所へ駆け寄って行った。
一匹、取り残された猫はトコトコとテクニカルエリアへ歩いていくと、そのままするりとベンチの下に潜り込む。
円堂監督たちは猫の存在に気が付いていないのか、それをどうこうする気配はない。──まあ、良いか。別に部活の邪魔をするわけでもあるまいし。
「剣城ー! こっちで相手してくれない!?」
「……ああ」
:
:
夕日の光で赤くなり始めたグラウンドに、音無先生の鳴らしたホイッスルが響き渡る。
「よーし、じゃあ今日の練習は終わり!」
「ありがとうございました!」
ぱん、と円堂監督が手を叩いたのを皮切りに、それまでほぼ無音だったその場に騒がしさが戻ってきた(主に松風や西園、浜野先輩の声だ)。
ふらふらと足を縺れさせた名字は、そのままベンチに倒れ込む。
「名前〜、戻らないの?」
「先、戻っといて……今ちょっと動きたくない」
グラウンドの端で繰り広げられている鬼道コーチの特訓はハードなようで、いつもダラダラとしている名字の声には更に覇気がない。
「体が冷える前に戻れよ」と、鬼道コーチは俯せになった名字の頭にタオルを被せてから、円堂監督たちと何か話し合いながらサッカー棟に戻って行く。
──これは、良い機会だ。
松風たちに気取られないよう、輪から外れて然り気無くベンチに戻る。
「だれ……?」名字は俯せたまま、呻いた。
「俺だ。とりあえず、起きろ。話しにくい」
「あー……んん、ああ……」
何だかよく分からない声を返しながら、名字が起き上がる。
額にベンチの跡が少し残っていた。
「なに……?」
「その、明日の件……なんだが」
「明日……? ……ん、わ」
ふいに名字がパッと足元を見下ろす。
釣られてその視線を追うと、名字の足元にさっきの猫が絡み付いてきていた。
「……随分懐かれてるな」
「あ〜。この間餌あげたからかな」
「なぁ知ってる?」名字はのんびりとした口調で問いかけながら、猫を抱き上げる。
「この学校、猫が二匹住み着いてるんだ」
「? その猫は武道館裏にいる奴だよな」
「うん。あと一匹は体育館裏にいんの。あっちは結構な年寄りでさ、こいつみたいにベタベタしてこねえんだ」
撫でることは出来るけど、と言いながら顎を指で掻かれた猫は、心地が良いのかごろごろと喉を鳴らした。
意外と、動物に好かれるタイプらしい。
「可愛いだろ。野良の割に人懐っこくて」
「……ん、ああ……」
一瞬こいつが普通に笑顔になったように見えて、目をしばたく。
だがそんなのは勿論目の錯覚。胸元まで抱き抱えられた猫と、目が合って──
「ぅなああああお!」
「え」
思いっきり威嚇の鳴き声を上げられた。
「……どんまい!」
「その顔やめろ腹立つ」
いきなり威嚇されたことに少しヘコみ名字のどや顔に苛立ち、顔をしかめたのもつかの間、名字に抱えられた猫が突然その手から逃れるように暴れ出した。
「うわ、ちょ、待っ──いたッ!?」
「ぎにゃー!」
ばり、と嫌な音がする。
転がるように着地した猫は、そのまま弾丸のような素早さで走り去っていった。
「いったた……おい、剣城ィ〜」
「べ、別に俺のせいじゃないだろ……」
からかいを交えた非難の声に、思わず体を少しのけ反らせる。
名字の顔には、頬の端から唇に掛けて猫の引っ掻き傷が残っていた。
「それにしても、あんなに急に暴れるなんて……あいつには今週餌やらないどこ」
「とりあえず、早くそれ消毒して──」
言葉尻が、空に消える。
ペンで描いたような細い傷口からじわりと染み出した赤に、息つく間もなく脈が早く、大きくなる。
「剣城? どうかした、」
──気付いたら、体が傾いていた。
額に当たる前髪と、零れるんじゃないかと思える程見開かれた目が、ただ漠然と視界に映る。
舌にゆっくりと伝わったのは、確かに俺しか感じない甘い′撃フ味と──飲み慣れた、スポーツ飲料水の味。
「〜〜〜〜ッ!!」
瞬間、目の前に火花が散る。
真っ正面から来た衝撃に俺はひっくり返り、踏ん張る暇もなく地面に転がった。
「う、あ……?」
状況が、よく分からない。
まばたきを繰り返して、その場に立ち竦み拳をこちらに降り下ろした状態の名字と、ズキズキ痛む頬に、グーで殴られたのだとようやく理解する。
──え?
「剣城のばか!! サイテー!! ブラコン!! ド変態ッ!!」
まるで、今思い付く限りの悪態を吐き出したみたいな。
夕日に負けず劣らず真っ赤になった名字は、踵を返し猛スピードで走り去っていった。
「…………は!?」
そこで、ようやく記憶が繋がる。
俺が、あいつに何をして殴られたのか。
「な──何してんだ、俺は……!!」
この間みたいに、自制は利かなかった。完全に無意識で、そうすることが自然みたいで。
けれど過ぎてしまった今、それは全部言い訳にしか過ぎない。──ああ、確かにバカで最低なことをしたと思う。
(どうすれば……いやそもそも、許してもらえることか!?)
血に釣られてキス紛いなことをするなんて。誰か三分前の俺を殴れ、全力で。
夕日の傾いた紫の空に、真円になりかけた月が浮かんだ。