つま先立ちの乙女心



『剣城のばか!! サイテー!! ブラコン!! ド変態ッ!!』

脳の奥底で、夕日に滲んだ罵声がエコー付きで響き渡る。
駆け去っていく背中が徐々にブラックアウトしていく中──ゆっくりと、瞼を持ち上げた。

「──夢か」

カーテンの隙間から朝の日差しが射し込んでいる。ああそうだ、いくら正気が半分飛んでいたような状況だったと言え、流石にあんなことをしてかすほど──

「いって」

ずき、と鈍く痛んだ頬に思わず手を添えた。どうやら腫れてはいないようだ。あの後すぐ冷やしたのが良かったらしい。
そこまで思い出したところで、昨日のことは夢じゃなかったと再確認する。

「……あああああああ゙……!!」

いっそ思い出すんじゃなかった。ベッドから起き上がって30秒、俺は寝癖のついた頭を掻きむしった。




おはよう、と学年男女バラバラの声が、方々から聞こえてくる。
その中を、俺は酷く憂鬱な気分でのろのろと歩いていた。

せめて今日が朝練がないのが唯一の救いか。
思わず吐いた溜め息も雑踏に消える。朝練があろうがなかろうが、クラスが一緒の名字とは顔を合わせざるを得ない。

(とにかく、まずは謝ろう……)

あいつも俺の事情を知っているのだから、きちんとあの時の衝動の理由を説明した上で謝れば許してくれる、はず。
下手をすればもう一発殴られるだろう。その時は一体どちらの頬を差し出せば良いのだろう。新しく右側の頬を腫らすのも嫌だが、痛みの引かない左側を悪化させるのも憚られる。

「っ、……」

くら、と歪んだ視界に眉根が寄った。
そうだ、あの一件でド忘れしていたが、今日は満月。早く血を摂らないと、体が持たない。
と言うことは──名字に昨日のことを許してもらった上で、血をもらわなきゃならないと言うことか。難易度が高過ぎる。

少しずつ重たくなる足を動かしながら、やっとの思いで教室へ辿り着いた。
後ろの方、奥の席。見覚えのある後頭部に向かって、近付いて行く。

「お──」

おい、と声を掛けようとした。掛けるはずだった。だが、口が「い」の形になるより先に、弾かれたように椅子から立ち上がった名字は瞬きするかしないかの間に俺の前から消えていた。
あまりの素早さに、逃げられた、と考え付くのに時間が掛かる。

(いや、当たり前か)

あれだけ罵倒したんだ、顔も合わせたくないに決まっている。寧ろ近付かれるのも嫌だろう。

……何だろうか、この全身を隈無く針で刺されるような感覚は。
顔を上げると、クラスメートの驚いたような視線が自分に集中しているのに気が付いた。

入学初期、ファーストコンタクトがアレだったせいでクラスメートから遠巻きにされていた俺が唯一教室で会話を交わしていたのは名字である。
その名字が、俺の言葉を待たずして逃げるように去っていった──明らかに、俺が何かしたと思われているだろう。いや、実際にやらかしてしまったんだが。

「おはよう、剣城くん。今名前ちゃんがものすごい勢いで走っていくのが見えたんだけど、何かあったの……?」

微妙な空気の中、のんびりと影山が登校してくる。
助かった、と思いつつ「さあな」と白を切って、俺は崩れるように席に着いた。

……ああ。さっきの反応に少し傷付いてる自分が心底情けない。

「剣城くん、顔色が悪いよ? 具合が悪いの?」
「……貧血だ。影山、悪いが俺は早退だって、先生に伝えておいてくれ……」

来たばかりだが、それが一番良いだろう。
あの状態の名字に血を請うなんてとてもじゃないが出来ない。だったら、今日は耐えて大人しく家で月が欠けるのを待つのが懸命だ。

「え、あ、お、お大事に!」

混乱しながらも後頭部に掛かる影山の言葉が、今は何よりもありがたい。
俺は歩いて来たばかりの廊下をまたのろのろと戻っていく。途中、あいつと擦れ違いやしないかと辺りを見回したが、名字の姿はどこにも見当たらなかった。




正面玄関は目立つだろうから、周りの目を掻い潜り裏門から学校を出る。
家を出て一時間もしない内に帰宅した俺に、当然だが母さんは驚いていた。

だが、母さんも一応俺の体のことは知っている。
今日が満月であることを言うと、母さんは表情を曇らせた。

「そう言うときに血をくれる子が、まだ見つかってないのね」
「ああ、いや、……まぁ」

見つかっている、と答えられないのは、母さんが名字のことを知っているからこそだ。
ここで否定したら何故血を貰えないのか聞かれるだろうし、自然と昨日のことも話さなきゃならない流れになるだろう。それだけは避けたい。

「明日には良くなると良いんだけど……とにかく、今日はゆっくり休みなさいね」

言って、母さんは俺の部屋から出ていった。
学ランの上だけ脱ぎ捨て、ベッドに倒れ込む。日差しが降り注ぐ窓が憎い。
力の出ない手でカーテンを閉め、薄暗くなった部屋で深呼吸を繰り返した。

横になっているといくらか楽だが、相変わらず視界はぐらついている。眠たいわけじゃないから目を瞑っても眠気は来ない。
ただ、自分の中に流れる吸血鬼の血が、必死に体を動かそうと激しく流れているのだけが何となく分かった。

動悸と目眩に、吐き気がしてくる。
昨日、あの時一瞬でも正気を保てていたら。あの場に猫がいなかったら。名字が、あのことを気にしていなかったら──

(……そうか。やっぱり、ああいうことも気にするんだな)

名字は大雑把に見えて、案外繊細な部分の方が多いんだろう。
改めて悪いことをした、と罪悪感がぶり返してきて、俺は枕に顔を押し付けた。
あんなことをして恥ずかしいのは自分も同じだ。けれど、それ以上に名字は傷付いたんだろう。初めて、だったのかもしれない。……少なくとも俺はそうだが。

(……寝よう)

眠気はない。が、延々と考え事をしていても何も解決しないだろう。
そう結論付けて気持ち静めると、不思議と意識も沈んでいくのが分かった。




それから、どれだけ時間がたったのだろう。
かすかに鼻腔に差した甘い香りに、沈んでいた意識が浮かび上がる。

「……?」

──誰か、いる。
何度か瞬きを繰り返し、焦点の合った目を凝らすと、ベッドの傍に見慣れたシルエットが座り込んでいた。

「……名字……?」
「──やっと起きたな」

また、夢を見てるんだろうか、揺れる視界で仰向けになった俺に、名字は立ち上がりこちらを見下ろす。
そうだ、あいつは俺を避けた。だから、ここにいるわけがない。

ぼんやりと夢見心地のまま、名字はおもむろに俺のペンケースから(勝手に)カッターを取り出す。
そして迷うことなく、左手の人差し指と親指の間、水掻きの名残に──刃を、走らせた。
ぶつ、と溢れた血の玉が膨らんでいく。

「何を、うぐっ!?」

そしてそのまま、開きかけていた俺の口を塞ぐように、左手を突っ込んだ。
傷口から出た血が舌に押し付けられる。甘い、命の一部。その僅かな量で、体が軽くなっていく。

「あ──?」

夢でも何でもない。これは現実だ。
名字は俺の口から手を引っ込めると、ハンカチで拭いてまたその場に座り込む。
思わずそれにつられてベッドに正座する俺。

「何か言うことは」
「……悪かった」
「誠意が足りねえ」
「すいませんでした」
「よし」

良いらしい。
名字はじっとりした目で俺を睨み付けた。

「本当なら、有り得ないんだからな? 絶交ものだからな!? あんな、あんなことしておいて!」
「お、おう……」

最後まで言って、名字は表情はそのままにぼわっと顔を赤くする。
と言うか、今さらだが何でここにいるんだろうか。時計を見ると、針は午後3時を指している。今日は5限で授業が終わるから、本来ならサッカー棟にいる時間帯だ。

「先生に必要なプリント持っていくように頼まれてな。監督たちには適当に理由つけて部活休ませてもらった」

どうせ夜から次郎兄さんたちと特訓だし、と名字は苦い顔をする。
それに、と名字は言葉を続けた。

「今朝、輝からお前が貧血で早退したって聞いて、思い出したんだ。今日が満月だって」

昨日も、それを話したかったんだろ。
その問いに、俺は頷いた。結果はああなってしまったけれど。

「……名字」
「あ?」
「その、……本当に悪かった。嫌な思いをさせた」

名字は少しだけ目を丸くする。
そして何度か瞬きを繰り返すと、「別に」とそっぽを向いた。
相も変わらず、赤い顔で。

「唇っつーか、口の横っちょだったし」
「ああ」
「犬に噛まれたようなもんだと思えば良いし」
「…ああ」
「……嫌だったとか、一言も言ってねーし」
「え?」

今、何て言った。
最後にぼそぼそと小さく呟いたその内容を聞き直そうとしたが、その直後二人分の飲み物を持って母さんがやって来たことにより、それは叶わなかった。