明日をなぞれない



陽光が容赦なく頭上に降り注ぐ。
土曜練習の今日は校舎から聞こえる生徒の声も少なく、グラウンドに響くのは俺たちサッカー部の声か、ランニング中の他の運動部の声くらいだ。

「剣城、今日は何か動きが悪いな」
「……そう、ですか?」

ふと、名字とパス練をしている最中、思案顔の円堂監督から声がかかる。
俺はボールを蹴っていた足を止めて、なんとなしに自分の体を見下ろした。

満月の晩が過ぎたのはつい三日前である。
少量ではあるが名字から血は貰ったし、この体質のせいで調子が悪いと言うのは多分ないはずだ。
「名字はどう思う?」円堂監督に呼び寄せられた名字は、こちらにやってくると首を傾げて俺の目を見つめた。

「確かに、何とな〜く覇気のない感じはありますよね。でも、本人に自覚症状はないですよ」
「そうか……」

見ただけでこれだけのことが分かるこいつの目も大概便利なものだ。まあ、今までの経験上、個人的に良い思いをしたことは一度たりともないが。
だが覇気がないと言われても、名字の言う通り俺自身は特に何も感じていない。
顔をしかめていると、ふいに名字が疑問の混じった目でこちらを見た。

「……ん?」

小さな疑問符を聞いた、その瞬間である。

「……っ?」

突然、視界がぐにゃりと滲んだ。
体温が血液から冷めていくような嫌な感覚が、頭から足元に向かって広がっていく。
最後に聞こえたのは、名字の焦りの混じった声だった。

「ッ剣城!?」




次に目を開けて見えたのは、白い天井だった。

「……あ……?」
「あ、起きた。剣城、私の声聞こえてる?」

にゅ、と視界に割り込んで来た名字が、ぺしぺしと軽く頬を叩く。
やめろ、と若干いらっとしながらそれを払い除けると、「大丈夫みたいだな」と名字は鼻を鳴らした。

「……? 保健室……?」
「そ。先生は軽い貧血だろうとか言ってたけど」

貧血。その言葉に少しだけギクリとする。
けど、必要な血はつい最近摂ったばかりだ。
話を逸らしたくて、俺はベッドの脇に腰かけた名字に話掛ける。

「それで……お前は何でここにいるんだ。部活は?」
「ちょっと様子見てきます、っつって抜けてきた。気になることがあってさ」

気になること? 反復すると、頷いた名字はこちらに向き直り俺の目をじっと見てきた。
いつもの嘘を見抜くための目付きとは少し違う。居心地が悪くなって顔を逸らすと、名字は顔をしかめる。

「ちょっと、動くな。こっち見て、目閉じないで」
「ふぐ、っ……!?」

がっ、と両手の平で俺の頭(と言うか頬)を掴み、名字はそのまま俺の目を覗き込む。
名字は案外長い睫毛を瞬かせながら、更に顔を近付けてきた。下手すると鼻先がぶつかりそうな──って近い近い近い近い! この間もあったぞこの状況!!

「な、何すっ……」
「──やっぱり」

仰け反ることも叶わずされるがまま距離感に思わず顔を熱くしていると、名字は始まりと同じく唐突に俺の顔を離す。

「剣城。お前、瞳の色が少し変わってる」
「……は?」

口を開いた名字は、予想もしていなかったことを言った。
瞳の色?

「鏡で確認してみろよ」
「お、う……」

言われるがまま、ベッドから降りて靴を履く。
カーテンの向こうへ出ると、保険医の先生は留守なのか姿が見えなかった。

そのまま保健室隅にある洗面台に向かい、大きな鏡を覗き込む。

「ほら、少し赤茶っぽくなってるだろ?」
「……言われてみると、そんな気もするが」

俺の瞳の色は、少し暗い金色だ。
だがそれが今は、元の色に赤を少し混ぜたような色に変わってる。

「……それと、これは今気付いたんだけど」
「っ!」

次に名字が手を伸ばしたのは、俺の耳だった。
耳朶の縁に触れた指先に驚いて、つい体が固まる。

「こっ、今度は何だよ」
「いや……何かさ、耳の形がこう、尖ってるような」
「はぁ?」

そう言われて、改めて鏡を凝視する。
だが、いくらじっと自分の耳を見つめてみても、何か特別変わったようには思えない。それとも普段から髪を纏める時に見慣れたせいで、変化に気付いていないだけなんだろうか。
せめて何か見比べるもの、と言うか、触り比べるものがあれば。

「……名字、ちょっと耳貸せ」
「は? っひあ」

「冷た!」どうやら俺の手は冷えていたらしく、耳を摘ままれた瞬間、名字は妙な声を上げる。
しかし今は気にしていられない。片方の手を名字の耳へ、もう片方を自分の耳へ当てて、形を確認するようになぞっていく。
耳の形も人それぞれだとは言うが、ある程度は同じだろう。

「ん、む、つ、剣城、くすぐったいんだけど……っ」
「我慢してくれ」

今はそれしか言えない。
耳朶から徐々に上へ、指を滑らせる。
その度に名字が上擦った呻き声を上げたが、聞こえない振りを決め込むしかなかった。

ふと、耳元を探る指先が名字の髪に触れる。
さらりと散らばる髪からはわずかに甘い匂いが香っていた。
いつもの、『贄』としてのものではない。多分シャンプーの匂いだろう。俺は父さんと兼用で男物のシャンプーを使っているから、その独特の香りは少し新鮮だ。

その時何となく視線を名字の耳から顔へ移動させて、思わず息が詰まった。
俺から目を逸らしている名字の頬が、赤くなっている。

「ま、まだ確認終わんない?」
「……う、あ、えっと……もう少し」

そこでようやく、自分がさっきの名字と同じように無意識に距離を詰めていたことに気付いた。
危ない。いや何が危ないのか自分でもよく理解していないがとにかくあのままだと何だか危険だった気がする、色々。

俺は頭を振って、耳を辿る指先を再び動かした。
そして、ようやく天辺。
僅かにではあるが、確かに名字の耳と骨格が違う──つんと尖った自分のそれに、絶望する。

「……」
「あー……言わない限り、そこまで目立つもんじゃねーよ。うん」

項垂れた俺に、名字は半歩距離を取りながら取って付けたような慰めの言葉を掛けたが、そんな問題でもない。

「だけど…そうだな、こう考えてみると」

ふいに真面目な顔になった名字は、だらりと腰元に落ちた俺の手を取り、掌に乗せて考え込むようにそれを見つめる。

「目と言い耳と言い、この体温と言い……まるで、本物の吸血鬼になろうとしてる、みたいな」
「……まさか、そんなバカなこと」

もう一度鏡を見る。赤みがかった瞳、尖った耳、氷のような肌、そして鋭い獣の牙。
──鏡をもう一度振り返ると、気のせいか、瞳の色がさっきよりも赤みが増しているように見えた。

「一応、……念のために、調べに行った方が良いかもな」