さあ、お手を拝借



ほぼ毎日のようにあった雪村の訪問は、あの日を境にぱったりと途切れた。多分、私の言った通り、あいつは彼女を頼るようになったのだろう。

「雪村くん来なくなって、寂しいんじゃなーい?」
「……別にぃ?」

読んでいた本を閉じて、私はからかい混じりに言って来た友人に何てこと無いように答えた。
心が芯から冷めていくような感覚。この1週間で、随分嘘を吐くのがうまくなった気がする。

寂しくない、寂しい。
悲しくない、悲しい。
悔しくない、悔しい。

負の感情は全部全部、出てくる言葉と裏腹に、私の外面を固めていく。
幼い頃の結婚の約束なんて無くても、腐れ縁で、ずっと隣にいられるかもしれないなんて思ってた今までの自分が馬鹿みたいだった。

「あの……」

ふいに、控えめな声が鼓膜を揺らす。
顔を上げると、会ったことのない女子生徒が私の顔色を窺っている。

「突然ごめんなさい。名字さん……で合ってる、よね?」
「そう、だけど」

どく、と心臓が嫌な音を立てた。
友人は一考した後、ひょっとして、と彼女を不躾に指さす。

「雪村くんの彼女さん?」
「あ、うん……」

ぽ、と頬を赤らめて、彼女は頷いた。
ふわりとしたボブカットの髪、ぱっちりした二重の目、雪村よりもずっと細くて小柄な体。なるほど中々の美少女だ。
あいつには、勿体ないくらいの。

「それで……私に、何か?」
「えっと、雪村くんがどこにいるか、知らないかな? お昼一緒に食べようと思ったんだけど、見つからなくて」
「ああ…あいつ、神出鬼没なとこあるからね」

可愛らしい弁当包みを2つ抱え、彼女は困ったように首を傾げる。きっと片方は雪村のために作ってきたのだろう。
その量じゃ多分、あいつのお腹は満足しないと思うのだが、忠告した方が良いのだろうか。

「……申し訳ないんだけど、私もちょっと分からないな。見つけたら、あなたが探してたって伝えておくよ」
「うん、ありがとう」

一礼して、彼女はとぼとぼした足取りで教室を出て行く。
可愛い子だったねー、と友人が欠伸混じりに呟いたのを尻目に、私は立ち上がった。

「あれ?どこ行くの、名前」
「図書室に本返してくる。先にご飯食べてて」

はいよー、と気の抜けた返事を背中に受けながら、本を片手に教室を出る。
昼休みの始まったばかりの図書室はまだ人気が少なくて、いるのは司書さんだけだ。

「あら、こんにちは。本の返却?」
「はい」

図書カードに判子を押してもらって、何となく窓の外を見る。
遠くに見える山には、まだ薄く溶けきっていない雪が残っていた。

「新しいの借りていく?」
「あ……いいえ、今日はやめておきます」

それじゃあ、と言い置いて、私は駆け足気味に図書室を飛び出す。
外を見て思い出したのだ。中学に入りたての時、まだ私があいつを豹牙と呼んでいて、あいつが私を名前と呼んでいた頃に聞いた話を。

「──やっぱり、ここにいた」
「……名字?」

校舎を出てしばらく歩いた場所、森の少し開けたところに、雪村はサッカーボールを抱えて立っていた。
ここは、元々人見知りの激しい雪村が見つけた一人でボールを追いかける場所。良いところを見つけた、と自慢してきたあの頃の雪村は、まだ可愛げがあったのに。

近くの木の下には学ランが放り出されていて、きっと昼休みが始まった直後にここに走ってきてボールを蹴り始めたのだと理解する。

何でここに、と目を丸くする雪村に、私は一瞬息を詰めてから、深呼吸した。

「……あんたの彼女さん、探してたよ。お弁当作ってきてくれたみたい」
「……あっそ」

ぼん。途端、顔をしかめた雪村は大きくボールを蹴る。大木に跳ね返ったボールをまた蹴り返し、蹴り返し。それを繰り返して動こうとしない。

「ちょっと、話聞いてた?」
「聞いてた」
「じゃあ、さっさと彼女さんのとこ行ってあげなさいよ」
「……何で」

雪村の動きが止まる。ころころと転がってきたボールが、私の足にぶつかった。

「何でって…放っておいたら、彼女さんかわいそうでしょう」
「さっきからうるせーんだよ、彼女彼女って!」

突然声を荒げ、雪村は私を振り返る。
怒っている──いや、少し違う。雪村は私に対して苛立っているのだ。
でも、その理由が分からない。

「お前には、関係ねーだろ……!!」
「……」

吐き捨てるように、そう言い放って。
ボールを抱えた雪村は、足音荒く校舎の方へ走っていった。

「……そうだよ。関係ないよ」

静かになった森の中、私は独り言ちる。
忘れ去られた学ランを拾い上げて、ついてきた草や葉を払った。
小柄で、それでも私の肩よりも少しだけ広い学ランの幅。いつの間にこんなに大きくなったんだろう。

「関係ないけどさ……」

今までずっと我慢していたものが、ぽろりと目からこぼれ落ちた。その場に蹲って、膝に額を押しつける。

分かってる。あいつを探しに来たのはただのお節介じゃない。一目会いたくて、言葉を交わしたくて、どんな憎まれ口を叩かれても、そうすればまた元気になれる気がしたから。
けれどそれも、逆効果だったみたいだ。

「何よ、豹牙の馬鹿っ……!」

久し振りに呟いた幼馴染みの名前が重たい。
私は、もう──

「おーい、雪村ー?」
「!!」

いっそ大声を上げて泣いてしまおうか、と考えた時だった。
後ろの方から聞こえてきた声に、慌てて目を擦る。

「……ん?」
「……ど、どうも」

低い木々を掻き分けて現れたのは、雪村のチームメイトの白咲だった。クラスは違うものの、委員会が一緒だから顔はよく知っている。
白咲は数度瞬きを繰り返し、こちらに歩み寄って来た。

「名字さん…? どうしたんだ、こんなところで」
「……いや、ちょっと。雪村なら、さっき校舎に戻ったよ」

だからさっさとあっちに言ってくれ、と暗に伝えようと思ったのだけど、白咲の視線は私の手元に留まっていた。
何だろうと思ったけど、すぐに雪村の学ランを抱えたままだったのを思い出す。

「……悪いんだけど白咲。これ、雪村に渡しておいてくれる? あいつ、忘れてっちゃって」
「ん? あ、ああ……」

学ランを受け取った白咲は、そこから動かない。
私は居心地が悪くて、視線から逃れるように空を見上げた。高いところを、鳶が飛んでいる。

「……名字さん。初夏と言えど、森の中は冷える。校舎に戻ろう」

静かに、白咲は私に掌を差しだした。
雪村の手とは少し違う、肉刺の痕がいくつも残った骨張った手。
私は、一瞬考える。雪村なら、ここでこんな風に優しく手を差し伸べたりしない。きっと、いつまでこんなところで座り込んでるんだ、なんてキャンキャン言いながら、無理矢理腕を引っ張るに違いない。

私はまた泣きたい気持ちになりながら、白咲の手を取った。