いつか夢見た先へ
「名字さん」
とん、とばらばらだった本を揃えながら、顔を上げる。
視線の先にいた白咲は、どこか胡散臭い笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「隣、良いかな」
「……ご自由に」
図書室の椅子は個人のものでないのだから当たり前だ。なのに彼はわざわざ了承を取って、私の隣に腰掛ける。
いつも放課後の図書室は人がまばらだ。今日は司書の先生も用事でいないらしく、図書委員もサボりか何かかカウンターの中は空っぽ。私は本を借りることも出来ず、かといって何となく帰る気にもなれずに暇を持て余し、かれこれ1時間近く図書室に入り浸っていた。
白咲は部活の活動記録か何かを机に広げ、逐一何か書き込みながら思い出したように口を開く。
「ああ、そう言えば、雪村の学ランは本人に返しておいたから」
「そう。ありがとう」
今朝見かけた雪村はキチンと学ランを羽織っていたから、ちゃんと返してくれたんだと言うことは分かっていた。
最も本人は、私と目が合うなり顔を最大限にしかめて走り去ってしまったのだけど。
(……むかつく)
本当に、私があいつに何をしたって言うのだろうか。今までずっと物を貸してあげたり勉強を教えてやったりしていた恩を忘れたのか、あのサッカーバカ。
苛々している間にも、白咲は独り言のように喋り続けている。
「昨日の雪村は随分機嫌が悪くてね。練習中もいつもより余計に周りに当たり散らして、全く面倒な性格をしているよな」
「そーね」
集中できない。もう何度同じ文章に目を通したか分からないが、中々次のページが捲れない。私には関係のない話のはずなのに。
「やっぱり、あの時君と何かあったのかな? 名字さん」
「………」
どうやら、全く関係ないわけではなかったようだ。
私は自分の表情が険しくなるのを感じながら、本を伏せて白咲を振り返る。
白咲は相変わらず胡散臭い笑みを浮かべたままだった。
「昨日に限らず、このところずっと苛々しているんだよ、雪村のやつ」
「……知らないよ」
昨日の件は私が関わっているとしても、それ以前のことは知らない。本当だ。
けれど仮に、それが1週間ほど前からのことだとしたら。
「雪村にはまだ、恋人なんて早かった、ってわけかな」
「……私、まだ何も言ってないけど」
「そう? そんなことを言いたげな顔に見えたけど」
自分は何でも知ってるような口ぶりだ。腹が立つ。
第一、と白咲は窓の外を指さしてみせる。その先を目で追いかけて、後悔した。
「どんな時もサッカーと吹雪さんのことしか考えてないようなお子様が、女子を気遣えるとは思えないし」
「……それは、同感」
図書室は2階にあるから、3階や屋上ほどではないがグラウンドが一望できる。
その一角に、雪村と、その彼女──昨日私に話しかけてきた、あの子がいた。距離があって表情までは見えないけれど、その様子は嫌でも分かった。
2人は正面から体を寄せ合って、彼女の手は雪村の背中に回っている。雪村の手はどこへ置けば良いのか彷徨っている最中で、あいつの恋愛経験不足が目に取れる。
抱き合う2人に、私は自分の中でガラガラと辛うじて残っていた大事な何かが音を立て崩れて行くのを感じた。
「あーあ、あんなに戸惑って。そこは頭を抱き寄せるとこだろう」
白咲は出歯亀らしく、にやにやしながら呟いている。私はガラスに指紋が付くのも構わず窓に手を突いた。
本当は、今すぐにでも叫びたい。何してるの雪村の馬鹿野郎、って。
でもそんな叫びも、もう届かない。
「しかし彼女も粘るな。毎日あんなに──名字さん?」
「!」
はた、と足下に落ちた水滴にハッとする。
慌てて顔を背けたが、どうも遅かったらしい。
「……大丈夫かい」
「うるさい……平気」
白咲は取り出した小綺麗なハンカチを差しだしてきたが、それを受け取る気にはなれなかった。
何でも知っているような口ぶりをしながら、私がこんな反応を返すとは思っていなかったらしい白咲は珍しく狼狽えている。
(しばらくそうしてなさいよ)
少し清々した気持ちで、揺らぐ視界でもう一度グラウンドを眺める。そこには既に雪村の姿はなくて、1人彼女さんがぽつりと佇んでいた。
「ん? あいつ、どこへ……」
「白咲ぃッ!!」
バンッ、と背後から響いたけたたましい音に、私たちは揃って飛び跳ねるように後ろを振り返る。
そこには、ドアの桟に手を突いて酷い形相をした雪村が仁王立ちしていた。
「何してんだよ、お前は!?」
「いや、何って」
「良いから名前から離れろ、この唐変木!」
げし、と履き潰した上履きで白咲を蹴って、雪村は私の手を引く。
放心していたのと雪村の力が存外強くなっていたせいで、私はあっさりとそちらに引き寄せられた。
驚いて顔を上げると、野生の犬猫が威嚇するみたいに雪村は白咲を睨んでいる。
白咲は雪村と私の顔を見比べると、やがて合点が行ったように眉を動かした後、わざとらしく肩を竦めて見せた。
「はいはい…じゃあ、お邪魔虫は退散するよ。またな、名字さん」
「え、あ、ああ…」
言って、白咲はそそくさと図書室から出て行く。
一瞬の間を空けて、雪村は今度は私を睨み付けた。
「何でお前はあのナルシストに泣かされてたんだよ!」
「は?」
両肩を掴み、私の体を揺さ振って問い質す雪村は、今までの比がないくらいに焦っているように見える。
一体、どうして。そう思うと同時に、目の前に雪村がいることがどうしようもなく悲しくて嬉しくて、止まっていた涙がまた溢れてきた。
「ちょっ──泣くなよ! ほんと、何されたんだ!?」
「ち、ちが……」
「血!?」
「そ、そうじゃなくて」
何だか一周して慌てる雪村が面白い物に見えてきたような気がする。
雪村は泣くな、と繰り返しながら、解れた学ランの袖で乱暴に私の目元を擦った。摩擦が痛い。
「それより……雪村は、何でここに」
「あぁ?グラウンドからお前が白咲に泣かされてんのが見えたから、問い詰めに来たんだよ!」
「あんたの視力どうなってんの……?」
マサイ族か。もう一度グラウンドを見ると、彼女さんの姿も、もうそこにはなかった。
「……彼女さん、置いてきて良かったの?」
「また、それかよ。……良いんだよ、もう彼女なんかじゃねーから」
「え?」
今度は私が驚く番だった。雪村は私から離れると、適当に引いた椅子にどっかり腰掛ける。
「あいつ、初めはお試しで良いから付き合ってほしいとか言ったくせに、どんどん要求増やしやがって」
「お、お試し?」
「さっきなんて、私とサッカーどっちが大事なのとか言うから、我慢できなくて振ってやったんだよ」
何というか、それは。会った時は奥ゆかしそうな印象を受けたが、そんなことはなかったらしい。
雪村がどっちをとるかなんて、普段のこいつを見ていれば分かるだろうに。
そこで私は、全校で雪村を好いてる女子の大半が、こいつの見た目に騙されているという事実を思い出した。
「……それで?何で名前は白咲と一緒で、その上泣いてたんだよ」
「え」
まさかそこを蒸し返されるとは思っていなくて、目を丸くした私に「え、じゃねーよ」と雪村は顔をしかめる。
だがしかし、いくら何でもこの状況だからって、バカ正直に雪村と彼女が抱き合ってるのが見えたのがショックで泣きましたなんて言えるわけもない。
「……そっ。そう言えば、あんたこそさっきからどういう風の吹き回し?」
「あ? 何のことだよ」
「名前!」
スルーしていたが、さっきから雪村はずっと私を下の名前で呼んでいる。ここ1年近く、ずっと名字と呼んでいたのを、小さい頃みたいに、名前って。
雪村は面倒くさそうに溜息を吐いた。
「別に、良いだろ。元々お前に付き合って名字で呼んでただけなんだから」
「は……? 何それ」
「何って……お前からだろ、雪村、なんて他人行儀な態度取り始めたの!」
一気に眉根をぎゅっと寄せて、雪村は噛み付く。
そう言われても、きっかけなんて全然覚えていない。だけど、雪村がこれだけ言うなら、本当なのだろう。
──そうか。
(先に離れたのは、私だったのか)
すう、と心が落ち着いていく。
遠くの空は薄く黒い雲が掛かり始めていて、もうすぐ雨が降りそうな天気だ。きっとこいつのことだ、傘なんて持ってきていないだろう。
「……ねえ、豹牙。久しぶりに、一緒に帰ろうか」
「ッ何だよ、突然」
「失恋の痛みを癒やしてあげようかと」
「だから俺は振られてねえって!!」
声を大にして、息を落ち着けた豹牙は椅子から立ち上がる。その表情は、何だか嬉しそうだ。
「仕方ねーから、一緒に帰ってやるよ。泣いてた理由も、教えてもらうからな」
「それはまだ秘密」
「何だよ、それ!」
名前。私の名前を呼ぶ豹牙の声は酷く優しく聞こえて、雨粒みたいに私の心に染みこむから、懲りずにまた涙ぐむ私の目を豹牙は呆れたように拭った。
(end.)