三千世界の鴉を殺し
主と朝寝がしてみたい



これは今から2年前の話だ。

『本の場所、聞きたいんですけど』

俺は課題に使う資料を探すため、図書室に赴いていた。だが探せど探せど目的の物は見つからない。図書室には名も知らない先輩が数人と、カウンターの奥の椅子に本を読む女子が一人。司書は見当たらない。
仕方がなく俺は、カウンターにいる図書委員であろう女子に声を掛けた。

『──はい。何の本をお探しですか』

そいつはゆったりと顔を上げ、機械的な口調で俺に尋ねる。無感動な瞳が俺の顔を写しているのが見えて、ロボットみたいな奴だ、と感想を抱いた。

『ああ、えっと……』

流石にそれを口に出すほどバカではない。俺が必要な本のタイトルを告げると、そいつは数瞬考えたあと「ああ」と小さく呟く。

『それなら、こっちじゃなくて資料室の中に。鍵をお渡ししますから、どうぞ』

引き出しから取り出した鈍く銀色に光る鍵をひょいと手渡された。あんまりな対応に、弥が上にも俺の表情は引き攣る。

『こう言うのって、普通委員が取ってくれるもんだと思ってたんですけどね』
『…………そうですか』

あ、ちょっと面倒臭そうな顔した。そいつは一瞬だけ眉を動かすと、俺の手のひらから再びひょいと鍵を摘まみ、カウンター横の資料室に入っていった。
それから約三分後、少しだけ埃っぽくなって戻ってくる。

『──貸し出しカードをお願いします』
『ん。……なぁ、あんた1年?』
『ええ。……それが何か?』

淡々と事務作業をしながら、そいつは目線だけを寄越してくる。

──思えば、俺はあの時ちょっと調子に乗っている時期だったのだろう。まだサッカー界の実情もよく知らず、女の先輩やクラスメートの女子から持て囃されて、周りよりも大人ぶった¢ヤ度をしていた頃。
持て囃すどころか、読書の邪魔をした俺のことを煩わしく思っているだろうその同級生に、逆に興味を引かれたのだ。中々ベタな話だとは思う。

『名前は?』
『…………名字』
『ふぅん、何て漢字』

ぴっ、とカウンターの機械が本のバーコードを読み取る音がしたあと、そいつは小さく息を吐き出して脇にあったメモ帳にさらさらと何か書き込んだ。

『──これで、名字』

びり、とメモ帳を一枚破り、手渡される。
薄い灰色の罫線の上、中央に書かれた名字≠ニ言う名前は、女子らしい丸文字でも、男子によく見られる変に角張った文字でもない。
すっきりとしてお手本と言っても過言ではない──表現が幼稚になるが、大人のような#しい文字だった。

『字、綺麗だな』
『どうも。…………期限は来週の金曜までです』

俺がメモをポケットに突っ込むのと同時に、貸し出し作業を終えた本を渡される。
そして名字はまた閉じていた本を読み始める。まるで人間には興味がないみたいだ。

──俺が興味の対象になったら、こいつはどう変化するのだろう。
思えば、その思い付きが全ての切欠だった。

『じゃあ、また来るよ。名字』
『ええ。次の金曜までには、是非』
『……そりゃそうだ』

最後にちょっとカッコつけようとして失敗して、俺とそいつ──後の恋人になる名字名前との初邂逅は終了した。
そこから俺が本気で名前に惚れ込んで、かつ名前を落とすのに丸々1年を要するのだが、そこにもあまり格好良いエピソードはないので割愛させていただく。




「──ん」

雑多に積まれた古い参考書を拾い上げると、その隙間から二つ折のメモが滑り落ちたのが見えた。散らかりきった部屋でしゃがむのは面倒だったが、仕方なくメモを足元から摘まみ上げる。
少しよれて変色したそれは、二年前名前からもらった名字の書かれたメモだった。あれからどこに行ったのかと思っていたが、こんなところに挟まっていたのか。道理で見つからないはずだ。

「今と全然変わってねえな……」

机に置いてあったメモと比べても、片方が古いこと以外代わり映えしない。
ただし、新しいメモに書かれた情報はこの数倍はある。

「南沢くんは筆無精って感じだからそんなに期待はしてないけど、まぁ、気が向いたらお手紙ちょうだいね」

──昨日そんな言葉と共に渡されたメモには、相変わらず綺麗な字で名前と住所が書かれていた。
確かに筆忠実なつもりはないが、わざわざ言わなくても。俺の視線で言わんとすることが伝わったのか、名前はややあって言葉を発する。目を細め──俺の気のせいでなければ、ほんの少しだけ寂しげに微笑みながら。

「じゃあ、それなりに期待して待ってる」

真新しいメモと古いメモ、二つまとめて無くさないように財布にしまい込む。片方は懐かしいから何となく、もう片方は無くしたら困るから。何せ、もう電話やイナリンク以外で情報を知る機会はない。直筆ならなおのこと。

──明日の今頃には、俺はもう稲妻町にはいないのだから。