戀という字を分析すれば
いとしいとしと言う心
「お久しぶりです、南沢さん」
「……おう。元気そうだな、神童」
軽く片手を上げると、見知った後輩は穏やかな表情で微笑んだ。
さて、現状を報告しよう。現在地はようやく慣れ親しんできた月山国光ではなく、数ヵ月前まで俺が通っていた雷門中学校である。
それと言うのも、雷門は近くある準決勝の試合の為に練習相手を探しており、話を受けた近藤監督が雷門の頼みであるならとそれを承諾したからだ。
次の相手は強豪と名高い新雲学園。中でも三国の目的は、新しくキーパーに推薦した西園を育てることだそうで。
兵頭をはじめ、うちの連中は若手の教育には徹底してスパルタだ。1年坊にはちときついかも知れないが、まぁ良い刺激になるだろう。
「──さっきから何キョロキョロしてるんすか、南沢さん?」
「あ? ああ……ちょっとな」
たっぷりの練習試合が終わり、そろそろお開きにするかといった空気になってきた頃、校舎の方を窺っていた俺を訝しむようにして倉間が訊ねてくる。相変わらず目敏い奴だ。
「あっ、俺わかる! あれっすよね、名字先輩探してるっしょ!」
「…………あァ」
誤魔化す間もなく、横から割って入ってきた浜野に俺はしぶしぶと頷いた。俺が彼女持ちと言うのは部内では以前から知られていることで、何せあいつもそれなりに有名人だ、それが名前だと言うことも把握しているやつは多い。
「名字先輩なら、今日は委員会の仕事ですよ」
「あ? ああ……そうなのか」
どうやら図書委員会に所属しているらしい速水の言葉に、ほんの少しだけ気分が落ち込むのを感じる。と言うか、あいつ今期も図書委員になったのか。相変わらず本が好きな奴だ。
「何だ南沢、とうとうフラれたのか」
「名字の趣味もわけが分からないド」
「フラれてねーし趣味がわけが分からねえとは何だ」
言いたい放題な車田や天城はこの際置いておくとして。
雷門に来ることが決まったのは4日前。それからすぐに名前に手紙を送ったから、多分あいつも俺がここにいることは知っていると思うんだが。
「(優先順位は俺より本か……まぁ、分かってたっちゃ分かってたけど)」
それでもやっぱりちょっとくらい、寂しいと思わなくもないわけで。こっそり溜め息を吐くと、「元気出せよ」と三国が背中を叩いてくる。
──兵頭は神童と話し込んでいる。俺はすぐそこで天馬たちと談笑している月島を呼び止めた。
「ちょっと校舎入ってくる。帰るときは連絡くれ」
「ああ、承知した」
頑張ってこいよ、と車田の軽口を背に受けて、俺は校舎に早足で入る。数ヵ月前まで通っていた学校を来客用スリッパで歩くのは何とも妙な気分だ。
時間は放課後、廊下を歩く生徒はほとんどいない。時おりすれ違う知り合いに軽く挨拶をしながら、図書室の前へ辿り着く。
「(……あ、やべ)」
どうせならジャージに着替えてから来るんだった。襟元に鼻を寄せてみると、少し土と汗の臭いがする。せめて制汗剤使ってくるんだった、と思いながらも扉に掛ける手は止まらない。
ゆっくりと扉を開くと、夕日のオレンジ色の光が溢れてきた。
「──名前」
柔らかい光の中で、カウンターで本を読んでいた名前が振り返る。
逆行で表情はよく見えないが、あら、と小さく呟いて表紙を閉じた名前は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「久しぶりね、南沢くん。あと少ししたらグラウンドに行こうと思ってたのだけど、先を越されてしまったわね」
「お前のあと少しは長いからな……その頃にはもう俺は電車の中だよ」
前と変わらない淡々とした口振りに安心感を覚える。どうやら図書室には丁度誰もいないようで、名前は口を動かしながらもカウンターのものを片付け始めた。
「ああ、でも、不思議ね」
「ん?」
「久しぶりだからかしら。私、今少しだけ」
緊張しているのよ、と小さな唇が歌うように紡いだ。
目をしばたく俺の反応を楽しむかのように煌めく上目遣いの瞳に、うっかり生唾を飲む。
「──へぇ。珍しいな、お前が緊張するなんて」
「あら、心外だわ。私だって緊張くらいするわよ、書道部の表彰式なんて、毎回緊張してたし」
「マジかよ」
氷の女王とまで言われるようなやつが、と笑うと名前はそうね、と小さく肩を竦めた。
それで?と、名前は話を続ける。
「あなたはどうなのかしら?」
「俺?」
「久しぶりに会った恋人に、何かご感想は」
「…………綺麗になったな」
「そう言う台詞は数年越しに出会った相手に言うものよ。30点」
「手厳しい」
何点満点中、と言うところは聞かないことにする。
とんとんと進む話が一度途切れると、外から聞こえる小さな音が図書室を支配する。カキン、と聞こえる野球部の練習する音、山に帰るカラスの声、吹奏楽部の奏でる楽器の音色。
俺はひっそりと息を整えた。
「──ま、綺麗になったってのはちょっと違うけどよ」
「何?」
「改めて、やっぱり美人だな、とは思うよ。久々に会うと尚更さ」
今度は名前が目をしばたく番だった。口許を手で隠すようにしながらしばらく考え込んだあと、ゆっくりと目を細める。
「……今のは?」
「百点かしら」
「さすが、俺」
それまで開いていた距離を大股で詰めて、目の前にある華奢な体をそっと抱き締めた。びくん、と一瞬震えた名前は、すぐに背中に手を回してくる。
汗で冷えていた体が、じわりと暖かくなっていく。もぞりと身動ぎした名前が、ぽそりと言った。
「南沢くん、汗臭い……」
「悪い」
「今日だけ許してあげる」
ぎゅう、と背中に回る力が強くなった。胸元にすり寄る顔は、珍しく幸せそうに微笑んでいる。
──これはかなり良い雰囲気なのでは。普段のキスどころかディープなやつをしても許されるのでは。気取られないように唾を飲んで、名前、と囁くと、潤んだ瞳が俺を見上げた。
額を合わせて、ゆっくりと唇を寄せる。けれど後少し、と言うところでハッと名前が声を上げた。
「──これ、何の音かしら」
「は?」
そこで今まで気付かなかった、コツンコツンと何か固いものがぶつかるような音が耳に届く。何だこんなタイミングで。辺りを見回すと、窓の外に小さな影が見えた。
──鳩だ。小綺麗な鳩がひたすら嘴で窓を叩いている。そこで俺は、まさか、と気付いた。連絡くれとは言ったけど、月島。鳩って。鳩ってお前。
げんなりしながら窓を開けると、鳩はくるっぽーと一鳴きして図書室に入り、カウンターに乗って片足を差し出してくる。
足にくくりつけられた紙を取ると、思っていた通り『そろそろ出発する、出てこられよ』と毛筆で書かれていた。兵頭の字だった。
「南沢くん……何、それ?」
「……月山国光の連絡手段」
「ずいぶんと古風ね」
鳩はパタパタと羽ばたいて窓から出ていく。全く何て間の悪い。名前は遠ざかる鳩を眺めながら、小さく言った。
「行っちゃうのね」
「ああ。寂しいだろ」
「それなりに」
そこはもう少し可愛いげのある答えが欲しかった。
まぁ、そんなことは今更だ。はは、と小さく笑って俺は踵を返す。名前は図書室の扉の側まで来て、廊下に出ようとはしない。
見送ってくれないのか、と聞こうとして思い止まる。ほんの少しだけ下がった眉尻に、ああ、こいつもやっぱり寂しいのだと気付いたからだ。
「またな、名前」
「ええ、またね」
ぺた──と草臥れた来客用スリッパが音を立てる。
こちらを見上げる名前から視線を外した次の瞬間、「待って、忘れ物よ」とユニフォームの裾をつんと摘ままれるのを感じた。
「何──んむ」
振り返った矢先、襟首を掴まれぐんと中腰にさせられる。そして口に感じる、柔らかな感触。
名残惜しそうに離れたその顔を呆然と見ていると、名前の唇はゆるやかに三日月を描いた。
「手紙、待ってるからね」
「…………あ、ああ」
我ながらぎこちない動きで体を返し、急ぎ足で廊下を進む。背後から面白がるような笑い声が聞こえたのは気のせいだと思いたい。
ああ、そうだ。町に戻ったら、家に帰る前にまた便箋を買いに行こう。そしてあいつが最初から百点満点くれるような、甘い文言で綴ってやるのだ。
お前のことが好きだと、いくら言っても足りないことをたまには思い知らせてやらないとならない。