ほんのお遊び、と彼はどこまでも億劫そうに、呆然とする私に言い放った。
たまには年下も良いかなって思った、とか、ゲームの難易度を決めるような言い種に、最早涙さえ出てこない。
ようするに私は単なる暇潰しだったのだろう。
「分からなかったのか、その男がどういう奴かは」
「だって、優しそうにしか見えなかったから」
淡々と返した私に、喜多くんは顔をしかめる。
ついさっきまで、私は二つ年上の高校生とお付き合いをしていた。行きつけのコンビニでよく見かける人だった。
そう、だったと言うのも、私たちは既に最悪の形で別れた後。
それと言うのも、塾帰りに見かけたあの人が、知らない女の人と仲良く手を組んで歩いているのを見てしまったからである。
その人は誰、浮気してたの─特に語気を荒げるでもなく、ただ唖然として問いかけた私の行動は、今となってはひどく浅はかなものだっただろう。
見なかったふり、知らないふりを決め込めば、私はまだ幸せな女の子でいられたのだろうに。
私の真剣な問いを心底煩わしそうに、彼は払い除けた。
お前と付き合ったのは、たまには年下も良いかなって、ほんのお遊び感覚だった─とか、何とか。
あまりの態度に驚いて、その台詞が正確かどうかも分からない。
とにもかくにもその場で硬直する私に彼はじゃあな、と言い放って、この子だぁれ?と首を傾げていた女の人─もしたしたら彼女さえお遊びなのかもしれない─を連れ立って、さっさと立ち去ってしまった。
どのくらいの間あの場で立ち竦んでいたのだろう。
数分かもしれないし、ものの数秒かもしれない。
ようやく思考が追い付いて涙が滲みそうになったとき、突然背後から駆け寄ってきたのが喜多くんだった。
こっち、と彼は険しい顔で私の手を引いて、誰もいない公園の、遊具の日陰になっているところへ引っ張ってきた。
曰く、通学路で昼ドラのようなことを繰り広げる私たちは大層目立っていたらしい。
涙も引っ込み落ち着いた私に、喜多くんは一部始終を目撃していたことを教えてくれた。
「そもそも、何で高校生なんかと…」
「あっちから話し掛けてきて、話していく間に自然と、と言うか」
今考えれば、付き合っているかどうかも曖昧だったのかもしれない。
付き合っちゃおうか、とは言われたけど、好きとも特に言われたことがなかったし。独り言のように呟くと、喜多くんはとうとう呆れた顔になった。
「元々、名字さんは騙されやすいんだな、きっと。この間だって、梅味だって渡されたグリーンガムに吐きそうになってたろう」
「だってグリーンガム、好きじゃない…」
何で喜多くんがそのことを知ってるんだろう、と思ったが、その件は確か西野空くんの仕業だったはずだ。それなら彼に話が伝わってもおかしくはない(と言うか同じクラスなら嫌でも伝わるだろう)。
喜多くんは緩やかに溜め息を吐いて、遊具に背もたれる。
小さい子しか入れないようなトンネルを間に空けた私たちの距離は、近くもなく遠くもなく、といった感じだった。
あの人とも、この程度の距離を保っていれば良かったのだろう。
付き合っちゃおうか、なんて言葉を鵜呑みにしないで、何言ってるの、と笑い飛ばしてさえいれば。
「私…恋愛がしたかっただけなのかも」
「は?」
私の唐突な言葉に、喜多くんは少し間の抜けた声を返す。
梅雨が明けるしばらく前から、最近彼氏が出来たらしい友達から散々のろけ話を聞かされていたから。
答えると、喜多くんは「ああ、彼女のことか」と納得した風だった。
「無い物ねだり…って言うか。置いていかれたくなかったのかもね」
「そう言うものか」
「そう言うものだよ、女子って」
一緒に並んでたい、置いていかれたくない。
勿論、そんな競争心なしでつるんでいる仲良しもいるのだが、彼女とはどちらかと言うとそういう友情を育んでいたから(別にそれが嫌な訳ではないけれど)。
そうか、と喜多くんはしばらく考え込むと、ふいに私の方を振り向いた。
惜しげもなく晒した綺麗な額に、じわりと汗が浮かんでいる。日差しを避けても、やっぱり夏は暑いものだ。
「だったら、試しに俺としてみないか」
「何を?」
「恋愛を」
ミーン、ミーン。
蝉の鳴き声がコントのように、静かな沈黙を許さない。
「…喜多くん、私のこと好きだったの?」
「そう言う好き、ではないと思う」
今のところ、と彼は真面目な顔で付け加えた。
「でも俺は名字さんのことを少なくとも好意的に…友人だと思ってるし、君だってそうだろう?」
「うん。私も喜多くんのこと、友達だと思ってるよ」
そうか、良かった。と、彼は少し安心した顔で呟く。
まぁ確かにここで、嫌いだ、友達じゃない、なんて返したら最悪だろう。当然、私が空気を読んだわけではなく、喜多くんを友達だと思ってるのは本心だ。
「だったら、そう言う始まり方があっても良いと思うんだ。確かに、清純と呼べるものではないだろうけど」
それでも、と喜多くんはそこで一度言葉を切る。
ここで初めて彼は、照れたように私から目を反らした。
「俺は、泣いてる名字さんを放っておけないと思ったから」
それじゃ、理由にはならないかな。
喜多くんは滴る汗を拭って、ぼそぼそと続ける。自分で自分がいたたまれなくなったのだろう。
私は─
「私、デートスポットとか知らないよ」
「うん、俺もだ」
「キスの仕方も知らないよ」
「…俺だって知らない」
「……めんどくさい女かもしれないよ?」
こんなことを言ってる時点で、既に面倒くさい女なのかもしれないが。
しかし、喜多くんは暑さを感じさせない爽やかな笑顔で首を振って見せた。
「それは、これから俺が判断していけば良いことだから」
そうだな、とりあえず今日は、一緒に帰るところから始めてみないか。
そう言って伸ばされた喜多くんの手を、私は自分でも驚くほど自然に取った。少し汗ばんではいるが、不思議とそれを不快に感じさせない、骨ばった男の子の手だ。
蝉の鳴き声は未だ止まない。入道雲がビルの合間から頭を覗かせている。
長い長い夏が、本格的にやって来ようとしていた。
陽炎の庭
休憩//20130722