幼い彼が目覚めたのは、辺り一面真っ白な世界だった。見慣れた銀世界とは少し違う。例えるなら、ここは雲の中だ。
 足下はまるで羽毛が敷き詰められているような感触で、ひとつ何かを間違ってしまえば、そこから真っ逆様に落ちてしまうような気持ちにさえなる。そんな危うい場所で、彼は辺りを見回してぼんやりと考える。
 何故、自分はこんなところにいるのだろうか。父は、母は。弟は、どこに行ったのだろう。

「おや、まぁ」

 ふいに聞こえた、ソプラノにしてはほんの少しトーンの低い声に。彼はまばたきを繰り返し辺りを見回す。
 白一色の世界に、ぽつんと。異質とでも言おうか、その空間にそぐわない烏の濡羽色をした髪を持つ妙齢の少女が、そこにいた。

「お姉さん、だれ?」

 口にした言葉が、どこかに跳ね返ったように世界に反響する。少女は小首を傾げ、崩れた黒髪をそっと耳に掛けながら口元を緩める。

「君は誰だい?」

 鸚鵡返しに。聞き返されたそれに少年は戸惑う。しかし少しすると、今ここで頼れるのは目の前にいる人間だけだと気付き、ゆっくりと口を開いた。

「ぼく、士郎。─吹雪士郎」
「そうか。士郎、良い名前だな」

 少女は微笑み、しかし一拍したあと目を細め、自分の背丈の半分もない彼をじっと見つめる。そして一言、ああと呟き手を打つ。

「そうか。君が、アツヤの兄か」
「アツヤを知ってるの?」
「ああ、知っているとも。何せ、旅立ちの日まであの子を見守っていたのは、私なのだから」

 士郎は、彼女の言葉に首を傾げた。弟が旅立ったとは、どういうことだ。
 不思議そうな顔をする史郎に、少女は一歩後退し、恭しく腕を曲げて一礼する。

「私の名前は、■■■だ」

 一瞬。たったの数文字を彼女が言ったとたん、彼の耳は機能しなくなった。耳に水が入り込んだように、もしくはテレビのノイズで満たされてしまったように。彼女の名前だけが、聞き取れなかったのだ。
 思わず耳を押さえた士郎に、少女は苦笑を漏らす。その場に膝を突き、彼と同じ目線になると、その雪のように白い頬を両手でそっと挟み、睫を震わせる。
 それは、泣いているようにも。笑っているようにも見て取れた。

「…そうか。君は、士郎の一部≠ネんだね」

 呟き、彼女は軽く目を伏せる。「一部?」ポカン、とする士郎の頭を撫でながら、彼女は柔らかく笑う。

「心配しなくても、士郎。君の弟とは、ちゃんと会えるよ。ただ、ここにはいないけど」
「じゃあ、どこにいるの?」
「そうさな。上手くことが運んでいれば、十年後にはちゃんと器を手に入れて、君に会いに来るさ」

 士郎は余計にわけが分からなかった。その顔をみた少女は、心情を汲み取ったのかそうではないのか。柔らかな表情を引っ込めて、カラカラと笑う。

「だから、君は早くおかえり。ここは、君とはまだ縁も程遠い世界だ」

 そう言った瞬間。士郎は目を見開く。目の前の少女の姿が、ゆっくりと透けていっていたのだ。
 「お姉さん!」名前も分からぬ彼女を必死に呼ぶと、少女は初めのようにおやと呟きながら自分の体を見下ろす。

「どうやら、君が目を覚ますようだね。いやあ、一安心だ」
「待って、お姉さん、待って!」

 既に僅かな輪郭しか残さない、出会ったばかりの少女を彼は必死に引き留めた。腕を引く士郎に、彼女はただ目を細めるだけだ。

「お願い、独りにしないで!」
「独り?何を言うか」

 クスクスと笑みを漏らした少女は、ふいにその白魚のような指で彼の額をトンと押した。
 すると、今まで白しか見えなかった世界が突然ぐんにゃりと歪み始めたものだから、士郎は余計に彼女の腕を強くつかんでしまう。
 しかしそれもつかの間の間で、徐々に輪を描きながら遠のいていく意識の中、彼は少女の腕が自分の手から離れていくのが分かった。

「君は、独りじゃないよ。仲間が沢山、いるじゃないか」

 ぐらりと傾いでいく彼の小さな体を受け止めることもせず。彼女はただ笑って、最後に告げる。

「妹をよろしく頼むよ、士郎」





「─あ。起きた?吹雪くん」
「……名前、ちゃん?」

彼が目を覚ましたのは、真っ白な世界でもなんでもない見慣れた宿舎の一室だった。

柔らかいものから頭をはなし、体を起こそうとすると目の前にあった名前の顔は焦ったような色を見せる。

「まだ寝てた方が良いよ」

ゆっくりと体を元の位置に押し戻され、吹雪は一瞬キョトンとすると、彼女と自分のこの距離から今自分の頭の下にある柔らかいものが彼女の短パンから出た剥き出しの太股なのだということに気が付く。
それに少しの羞恥を覚えながらも、彼女のことを悪く思っていないと自覚している吹雪は大人しくそれを甘受する。まばたきを繰り返しながら、頭上の名前を見上げた。

「名前ちゃん、僕は…」
「ああ、吹雪くんね、練習中に倒れたの。軽い熱中症だって。ごめんね、今みんなのお布団のカバー全部洗濯中で…」

「ううん、大丈夫」一つの問いに、返って来た三つの答えに吹雪は静かに目を伏せて、ゆっくりと息を吐く。
そしてふと、思い出したように瞼を開けて、更に問った。

「─ねぇ。名前ちゃんって、お姉さんいたりする?」
「え?うーん…いた、っていうのが正しいのかも。私が物心ついた頃に、病気で死んじゃったから」

どうして?と首を傾げる名前に、何故こんな質問が飛び出たのか自分でも分からなかった吹雪は、「何となく」と曖昧に微笑む。

見たばかりの夢の内容は、いつの間にか記憶の彼方へ飛び去ってしまっていた。



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