大半の生徒がまだ家でのんびり朝食でもとっているであろう時間に、私は誰もいないグラウンドで走りつづける。
もっと速く、もっと速く。
「先輩、本当に速いですよね!」
宮坂はああ言ってくれているけど、ダメなんだ。
私がどれだけ速く走ろうが、どれだけ洗練されたフォームで走ろうが。

「…名字?」

こいつに追い付けなきゃ、意味がない。

「…随分早いんだね、風丸。あんたも練習しにきたの」
「ああ、うん。お前こそ」

風丸の転がしたサッカーボールが、てぃんと音を立てる。
コロコロと転がってきたボールを、私は片足でちょいと受け止めた。

「最近、他の奴らも速くなってきたからな。俺もまだまだ頑張らないと」
「…そ」

てん、と軽く蹴り返したボールを風丸は受け止める。
まだ、まだこいつは速くなるのか。今の時点で、私の手が届かない場所にその背中はあって、それよりも、もっともっと遠くに。
それこそ、次元が違うみたいに。

「…なぁ、名字。お前どうしたんだよ」

風丸はふいに顔を歪めた。

「私はどうもしない」
「うそだ」

間髪を入れず。私は顔をしかめる。

「宮坂が言ってた。お前、最近調子悪いんだろ?」

あいつ、余計なことを!
ああいや違う、宮坂は悪くない。あいつは単に私の心配をしているだけだから。

「だったら何だっての?風丸には関係ないでしょ」
「…何でそんなこと言うんだよ。俺はただお前が、…心配で」

語尾を弱めながら、風丸は俯いた。
分かってる、分かってるんだよ。悪いのは風丸じゃない、宮坂でもない。他ならぬ私なんだ。

「…もっと速くなりたいの」
「え?」

風丸の茶色の目を見つめる。
あいつから見える私の目は、きっと濁ったままなんだろう。

「分かるでしょ。もっともっと速くなって、─追い付きたいの、それ以上はいらないの」
「名字?」

ただ、一緒に走っているだけで良かった。
サッカー部に行ってしまっても、時々宮坂に引っ張られて、仕方ないなって呆れた顔をしながら一緒にコースに並んで。

ただあんたは私が見てないほんの少しの間にぐんぐん速くなっていて。

あんただって知ってるでしょう、置いて行かれる恐怖を。
あんたは知らないでしょう、隣にいられない寂しさを。

「─嫌いだ。サッカーも、風丸も」

気付けば私はほろほろと涙をこぼしていて、呆然と風丸がこっちを見つめていた。
これは私のわがままだ。そんなことは分かってるのに、涙は止まってくれない。

私がもっと速かったら、風丸は私の隣を走ってくれていたのだろうか。

「…俺だって、今の名字が嫌いだ」
「…そう」

おかしな話だね、嫌いだって先に言ったのは私なのに、心臓が引っかかれたみたいに痛む。

「お前は俺と同じでなきゃ、一緒にいてくれないのか?」
「、は?」

目の前の風丸が、やけに近い。それが分かった頃には私の目元は少し骨ばった手で乱暴に拭われて、両肩が捕まれていた。

「今までこっ恥ずかしかったから言わなかったけどな。お前のフォーム、見惚れるくらい綺麗なんだよ」
「そ、りゃ…どうも」

目と鼻の先にいる風丸の顔がすごく真剣な顔をしていて、私は突き飛ばすことも出来ずにそのままじっと固まる。
風丸は言った後から恥ずかしくなったのか、じわじわと顔を赤くした。

「自分で言っといて何恥ずかしがってんの…」
「うるさい、言っただろ恥ずかしかったから言わなかったって!!」

だからさ、と風丸は赤いままの顔で続ける。

「名字は名字で、俺は俺で。戦う場所が違うだろ!なのに、どうして張り合う必要があるんだ!」
「な─によ、分かったようなこと言って!」

ぐっと風丸の鎖骨辺りを押し返したが、微動だにしない。私はそのままの姿勢で言い返す。

「あんた簡単に言うけどね、どんだけ私が悩んだと思ってんの!?一年の頃は同じくらいだったのにサッカー部行ってからひとりだけどんどん速くなっちゃってさ!何が戦う場所が違うよ、私はあんたに追い付きたいのよ!!」
「だからってこんなにやけになることないだろ!お前、昔はもっと楽しそうに走ってたじゃないか!!」
「知らないわよそんなこと、っ」

ひゅっと息が詰まった。
視界の端には風丸の青い髪が見えて、背中には大きなものが回り込んでいて、私、抱きしめられてる。
自覚した途端、さっきまで正常に機能していた喉がカラカラになって、声が出なくなった。

「俺は、今の名字が嫌いだ。─いつも、あんな泣きそうな顔で走ってるお前なんて」
「かぜま、」

ぎゅうっと腕の力が強まって、私は身を竦める。

「俺は、前みたいに楽しそうにしながら走ってるお前が、お前だったから、好きになったんだよ」
「す、」
「なぁ、名字」

どうしたら、お前は前みたいに笑ってくれるんだ?
耳元で、風丸が囁く。

私は思い切り、風丸を突き飛ばした。

「いっ…何すんだ!」
「こっちの台詞よ!」

私は距離を取りながら、風丸の足下を見た。
来たばかりのあいつが履いているのはスパイクなんかじゃなくて、普通の登校用シューズ。
いつもの速さも、少しはこれで押さえられるだろう。

今まで散々─さっきのも含めて、私を悩ませた罰だ。

「─今から、三分以内に私を捕まえられたら、考えてやらないこともない!」
「え─ちょっ、名字!」

私を呼び止める声は聞こえない振りをする。風を切りながら、私は火照った頬を冷ました。

私に恥掻かせた罪は重いけどね、風丸。捕まえられたら、さっきの嫌い発言は取り消してあげるよ。
さっきの風丸の言葉を考えると、すごく恥ずかしくてくすぐったいけど、こんなにスッキリした気持ちで走ったのは久しぶりだった。


二律背反