03


たくさん寝たにも関わらず朝と言うものは何故か眠気が残る。登校してくる生徒たちを迎える教室には、朝ならではのまったりとした空気が流れる。紫波天音もそのまったりとした空気を醸し出している一員で、机にぐだりと倒れ込みながら、斜め後ろの席に座る中森青子という仲の良い友人と他愛もない話をしていた。
そんなまったりとした空気を打ち破ったのは、彼女らに駆け寄ってくる一人の女子生徒であった。


「青子!天音!今朝のニュース知ってる!?」

「あ、おはよー恵子ちゃん」


桃井恵子。眼鏡と頭の高い所にちょこんと結ばれたツインテールが印象的な彼女は、わくわくした様子で青子と天音の元まで駆け寄ってきた。恵子は朝の挨拶も忘れるほど興奮していて、きらきらと目を輝かせている。
恵子が口にした"朝のニュース"。その意味が理解できない天音は静かに首を傾げて意思表示をした。一方の青子は恵子の言う意味が理解できたのか、突然ムスッとした表情へと変わった。


「ふんっ!キッドなんて知らないもん!」

「知ってんじゃん…」


恵子の言わんとすることと、青子のおかんむりな理由はイコールで繋がれるようだった。だけども天音は首をさらに深く傾げることしかできなかった。天音にとって疑問なのは青子の反応。先ほどまではあどけない可愛らしい笑顔は消え、一目瞭然なまでに不機嫌オーラを放っているのだ。"キッド"が原因なのだろうけど。


「私、キッド知らない」

「えっ、本当?遅れてるよ?」

「失敬な」


素直にわからないことを伝えれば間髪入れず、恵子は意外そうに本音を零した。生憎、テレビや新聞を読むような習慣がない天音は時代に取り残されていたのだ。
なにかと情報をキャッチするのが早い恵子ではあったが、いまや"キッド"はホットな話題であることは間違いない。天音の疎さに驚きつつも、"この子はそういう子だった"と頭の片隅で思い出した恵子は口を開いた。


「怪盗キッド!変幻自在、神出鬼没の怪盗よ!とってもクールでミステリアスなところが素敵っていうかぁ…。最近8年振りに復活したみたいでよくテレビとか新聞で予告状出してるの!」

「怪盗…ってことは、なにか盗んだりするの?」

「そうそう!」


そんな派手な怪盗って空想世界の話じゃないんだ、と天音は思ったが、それ以上なにを思うことはなかった。自分に関わるようなことは今後ないに決まっているから。そう彼女は思っていた。
天音は人への関心がいまいち薄い。それは彼女の勉学の姿勢に通ずる部分はあるが、興味がある範囲でしか知ろうとしないのだ。特に親しい間柄ではない人たちへは当たり障りのない態度で接するが、訊かれれば応えることはするし、自分の考えを述べたりする。だけど深くは踏み入らないし、それを誰かに何も言うつもりもない。持ち前の勘の良さで的確な応答をしたり聞き上手なところから、その適度な距離感を心地良く思う人物は多く、天音のことを好いてくれるクラスメイトは少なくない。
でも気になるときだってある。それは親しい間柄の人物に関することで、いまこの場では友人の青子をここまで不機嫌にさせるような存在に少し興味が湧いた。あくまで、青子が不機嫌になる理由までだが。


「なにが怪盗キッドよ!」

「ほんっと青子ってばキッドのこと嫌いよねー」

「だってお父さんの仕事の邪魔ばっかりするんだもん」


青子が機嫌をそこねている原因は、怪盗キッドが父親の仕事を邪魔しているからであった。そう彼女が呟いたとき、恵子と天音は納得したように、ひとつ頷いた。
青子の父親は警察官であった。盗みごとをしようものならば警察が動かないはずがない。怪盗キッドにおいては事前に予告状を送りつけるものだから、未然に防ぐため警察も動く。モノを守る警察の仕事を邪魔する泥棒。当たり前の構図ではあるが、青子の悩みはそれだけではなかった。


「しかもキッドの担当してるからお父さん休めてないみたいで…」


青子は大好きな父親の体調を心配していた。俯き切なげに言う彼女の父親は怪盗キッドの担当でもあった。天才的な怪盗を追うのは大変なことで、8年前に忽然と消失する前から彼女の父親はキッドを追っていた。なんだかんだで長い付き合いになるが、いつも手から零れる水のようにするりと警察の包囲網を抜けてしまうそうだ。


「追う側も追われる側も過労で倒れちゃいそうだね」

「ぷっ!なんか天音おかしー」

「だって8年も休んでたのに急にお互い大変そうじゃない?」


天音は思ったことをそのまま口にしたところ、青子は小さく噴き出して微笑んだ。あ、笑顔になった。そう安心した反面、おかしいと笑われてしまった理由が少しわからなかった。青子の父親を心配して放った言葉ではあるが、よくよく考えてみれば怪盗キッドという人も疲れちゃうのではないかと思ったからである。


「でも怪盗キッドって手品で華麗に盗んじゃうから案外疲れないんじゃない?」


恵子の言った言葉に天音はハッとなにかに気づいた。手品を使う人だったら、同じく手品を使う人に相談してみたらいいのではないかと思ったのだ。
くるりと自分の後ろの席を見たが、まだその席の持ち主は現れていなかった。なんだ、と思って彼女たちと話していた姿勢に戻ろうとしたら、視界の片隅に後ろの席の人が教室に入ってくる姿を見つけた。「はよー」と大きな欠伸を零しながらやって来たその人に「おはよ」と一言告げると、いま思っていることを天音は聞いた。


「黒羽くん。怪盗キッドって知ってる?」

「あー?知ってるに決まってるじゃねぇか」


「さすが同業者」と天音が感心すれば「なんだそれ」と眠たげな眼で快斗は笑った。天音はそのまま"手品って疲れないの?"とシンプルすぎて意味の分からない質問をしようとしたとき、教室の前の扉から一時間目の教師が入ってきて、同時に始業を告げるチャイムが鳴り響いた。少し慌ただしく自席につこうとする生徒のざわめきに乗じて、天音は前を向いた。
話が途切れてしまった快斗はまだ話し足りないようで、前の席に座る天音の肩を突いた。
話し足りないのもそのはず。"怪盗キッド"とは自身の別の姿であるものの、人に興味を持ってもらうのは悪い気分ではない。


「なになになに、天音ちゃん!怪盗キッドに興味あんのー?」

「私はないよ」


彼女は一時間目で使う現代文の教科書を取り出しながら快斗のことは一瞥もせずに答えた。「はあ!?」という快斗の驚きは「起立」という号令の音と椅子を引くたくさんの音でかき消された。


「あんなに話題になってんのに興味ねぇのかよー!」

「一般市民は怪盗さんと関わる機会ないもーん」


天音は立ち上がって快斗にそう言った。ちらりと後ろを向き、いたずらを考えている小さな子供のような顔を「イヒヒ」と笑って見せつけ、「礼」という号令に合わせて前を向いて腰を折った。そのまま彼女は後ろを振り返ることなく席に着いた。
そんな彼女の背中を何やら不満げに眺めている彼の意図は、睨んでいる本人でさえもわからなかった。









帰宅部である天音の帰宅は早い。お小遣い稼ぎに学生らしくアルバイトなんてやってみるのもありかもしれないが、彼女はいまの生活でいっぱいいっぱいの部分があった。地元の米花町から高校の江古田まで。少しばかり通学の時間もかかるし、家のこともしなければならない。
家へと帰る天音が潜った門の先には北欧風のモダンな大きな家。立派な一軒家であるが、それもそのはず。彼女の両親は職に恵まれ、身近にいるあのお金持ちの友達と比べるのは失礼な話だが、お金に関しては不自由なく暮らしている。お金に関しては、だ。
鍵を自ら開けて静かな家へと入る天音は「ただいま」と、家の大きさに反した声で言った。というのも、家には誰もいないから。
ちょっと家の掃除でもするかと思った天音の耳に入ったのはプルルと鳴り響く電話の音。切れる前に取らなければと小走りで電話機の元まで駆け寄り、受話器を取った。


「もしもし紫波です」

「ああ…奥様でいらっしゃいますか」

「あっ…いえ、あの、私は───…

「ご無沙汰しております。寺井でございます」


母親と自分は似ていると思われるような年になったのかと、嬉しくも悲しく動揺する彼女の言葉を遮り、電話の主は懐かしさを噛みしめたように年を召した柔らかい声で名を寺井と言った。



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