04


「ご主人様は…」

「いえ、いま仕事で…」

「ああ。また研究旅行に行かれているのですか…」


ジイとはどんな字を書くのだろうと思っている天音の気持ちなど露知らず、彼女を彼女の母親と勘違いしたまま寺井という人物は尋ねた。
天音の父親は大学の准教授をやっており、よく研究旅行と言って家を留守にすることがある。仕事で、というだけで父親のことを知ったように言うこの人は自分の両親の昔馴染みの人なのだろうか。それをいますぐ答えられる人はこの電話口の相手しかいないはずなのに、何故か天音は自分が母親ではないと告白することが出来ずにいた。


「紫波様のお力をお借りしたく、8年振りにお電話させていただいた次第でございます」


8年振りというワードになにか聞き覚えを感じたが、電話に集中しているいまこの時に思考を巡らせる余裕は彼女になかった。父親の力を借りたい。父親は昔、この人に力を貸していた。なにを協力していたのだろう。


「"江古田駅前の時計台"についてお伺いしたく…」

「え?」


なんだそんなことかと天音は思っていたよりもあっさりとした内容に力が抜けた。
力を貸すというのは父親の研究資料を頼ってのことだったのかと彼女は思った。小さいころからこのようなことはよくあった。大学の准教授をしている彼女の父親は美術研究をしており、中でも専門は宝石などの分野らしいが美術品全般の造形や歴史などに興味があるため、趣味で多くの資料を集めて勉強していた。その情報量は膨大で、彼女の父親の知識を頼り、他大学の教授などからもよく個人的な依頼をされていた。それを思い出した天音は寺井を大学の知り合いかなにかだろうと思った。
それにしても、近々美術館で展示されるようなものについてではなく、こんな近所の時計台について訊かれるなんて、と少し疑問に思っていた。


「お手数ですが何卒…」

「は、はあ…」


そう言って、寺井は自身の連絡先であるメールアドレスを口頭で言うと、そちらに資料を送ってほしいという旨を伝えた。聞き逃さないように慌てて英数字の羅列を電話機の傍にあるメモ帳を使って控えた。天音は教えられた英数字を復唱すると間違っていなかったようで、寺井はお礼の言葉を伝えた。


「今後もまた以前のようなご協力をお願い申し上げます」


そんな丁寧な言葉を残し、電話は切れた。ツーツーと一定のリズムで鳴る単音を聞きながら天音は3分も足らない電話に対して茫然としていた。
"今後もまた"ということは連絡が近いうちにまた来るのだろう。天音は掃除をしようと思っていたことなどすっかり忘れて、父親の書斎がある二階に向かうべく階段を上った。書斎の扉を開くと少し埃っぽいにおいがした。彼女の目の前は一面本棚で、床から天井まである大きなものにも関わらず、足元にも本が積み重ねられていた。比較的整理整頓のできている部屋ではあるが量が量で、この部屋の持ち主以外は探し物をするのが一苦労なのはわかりきったことだった。


「どこにあるんだろう…」


天音は独り言を言うと、近くの本棚を見た。並べられた本の背表紙を見ると、近くにある本も似たようなテーマを持った本が揃っていた。本と本の間には彼女の父親がまとめたと思われるレジュメのようなものが綴じられたファイルや紙がそのまま挟まれていたりもした。
時計台についてはどんなジャンルになるのだろうか。流し見るようにゆっくりと歩きながら本の背表紙を見ていたところ、ある一点に彼女の視線が留まった。地域建造物の本が連なるその本棚の上段には、少し黄ばんだ紙が数枚はみ出していた。父親の書いたものだと踏んだ天音は近くにあった小さな脚立を使って、その紙の端を掴んだ。雑な扱いで本棚に詰められていたにも関わらず、その内容はしっかりとまとめられていた。ぱらぱらとページをめくると地域ごとに細かく丁寧に建造物について記されていた。その中に探していた"江古田駅前の時計台"について書かれているページを見つけた。


「外国の有名技師によって作られた時計台の針。…短針には大きなダイヤモンドが埋め込まれており、美術的評価も高い…。なお、時計の文字盤は───…」


こんなに膨大な情報がある部屋から思ったよりも短時間で求めているものを見つけられた天音は溜め息を零した。父親の資料は単純に時計台の概要が書いてあるだけでなく、金銭的な価値の予想や時計台の構造まで、こんなこと知ってどうするんだろうと思うような情報まで書かれていた。ざっくりとその内容を目に通したが、電話してきた人はなんでこんなことを訊きたがるのだろうか。


「なんなんだろ…ジイさん?…だっけ」


一応ある情報すべてを伝えるべきなのだろうけどどうも怪しい。でも、父親と母親の昔馴染みの人を疑うのも失礼な話かもしれない。そんな小さな葛藤が天音の中で怒ったが、結論としては"まあ、どうでもいいか"という適当な着地点に至り、父親の書斎にあるパソコンからこの情報を送ろうと天音は電源をつけた。


「……とりあえず新一くんに相談してみようかな…」



r u r u