06


ある日、天音が家に帰ると玄関には大きな革靴が揃えて置いてあり、ドアが少し開いていたリビングからはテレビの音と明かりが廊下まで漏れていた。特にそれを何と怪しむ事はなかったが、意外に思えた天音は確信を持ってリビングのドアを開けた。


「お父さん」

「ただいま、天音」

「おかえりなさい」


リビングには、ふかふかのソファに腰掛けて部屋着で新聞を読みながらテレビの夕方のニュースにも耳を傾ける彼女の父親がいた。もしかして帰ってくると連絡があったのかなと、リビングに入り、父親の向かいのソファに座った天音は鞄から携帯電話を取り出した。画面を見てみると父親からのメールが一通入っていた。アイコンを指で押すと、"今日、帰ります"というシンプルな内容であった。
だけど彼女は疑問に思っていた。


「研究旅行って来年まで行くんじゃなかったけ」

「いや、一時的に戻って来ただけだよ」

「なにかあったの?」


天音の父親は今年と来年は長期的な研究旅行で家を空けると言っていた。ほとんどの時間を海外で過ごすことになるため、もしものときはすぐに駆け付けられない、と申し訳なく言っていた。
だからこうして父親が帰ってきていることが不思議だったのだ。


「明日の夜は空いているか?」


父親は完全に自分のペースで、天音が不思議に思っていることなどまったく気づいていないようだった。
このマイペースさは昔からで彼女の母親も頭を抱えていた。自分の気の赴くまま行動し、興味のあることを一度見つけてしまったらしばらくはそれに没頭してしまう。周りのことはあまり関せず我が道を行くスタイルであった。


「あ、明日は園子ちゃんちのパーティーに行くの」

「鈴木さん…かい?」

「うん」


天音の気を構わずに言った質問に対し、彼女は素直に予定を教えた。
その予定とは先日、園子からの一本の電話で約束付けられたものだった。用件といえば園子の父親の誕生パーティーをするからよければ来ないかというものであった。用事などなにもなく、一人でいる時間をなるべく少なくしたかった天音はその場でイエスという返事をし、パーティーにお呼ばれすることになった。そのパーティーが明日控えている。



「ちょうど良かった。お父さんも鈴木会長にお呼ばれしていてな。鈴木財閥は来年60周年を迎えるそうだが、来年のほうが研究も忙しくなって日本に戻れなそうだからお会いできるときに行かないと」


そのとき、天音は父親が帰ってきた理由、そして自分に質問した意味が一致した。
大学のいち准教授でありながら、大学で教鞭を取る以外にも研究者として・学芸員として多方面に活躍している天音の父親は園子の父親とも面識があり、鈴木家を知っていた。よく鈴木財閥が行う美術品の展覧会などでも天音の父親がスタッフとして参入していることも多い。そのため親同士の結びつきも薄いものではない。研究旅行を中断してまで戻ってくる訳も納得できる。パーティーではまた展覧会の企画などの話をされるのではないかなと思うと、趣味のことだからきっと父親は熱弁してしまうだろう。
目を輝かせて美術品について語る父親の姿を想像すると子供みたいで面白いが、ふと天音の頭の中に"あの電話"が過ぎった。


「あ、そういえば。ジイさん…って知り合いいる?」


先日新一に相談し忘れてしまった内容である。あの電話の意味を理解できる相手がいなかったために頭の切れる幼馴染に相談しようとしていたが、父親がこうして帰ってきたことによって回りくどく憶測をしあう必要はなくなったのだ。
当の訊かれた天音の父親は娘の口からその名前を聞くとは思わず、意外という気持ちと同時に8年振りとなるコンタクトに思わず口角が上がった。新聞をたたみ、にやりと微笑みながら自分の娘を見た。


「…美術品について尋ねられなかったかい?」

「え、あ、うん。昔からの付き合いなのかなぁって思って、お父さんの資料から探して教えちゃったんだけど大丈夫だった?」


なにかを含ませたような笑みを浮かべる父親はなにも問題がないと言わんばかりの表情でゆっくりと深く頷いた。
怒られることはなくても注意のひとつやふたつされると思っていた天音は目を丸くした。どこか嬉しそうな様子の父親の態度に、頭の中で疑問符が乱舞した。


「あ、でもあの人、私のことお母さんと勘違いしてたんだけど教えるタイミング損ねちゃって」

「そうか…。あの人との連絡が途絶えたあとに母さんは亡くなったからな」


天音にはもの悲しい気分がそそられ、彼女の父親の瞼には深い哀愁が籠った。
二人にとってかけがえのない大切な人物の命の灯が消えたのは5年ほど前のこと。
警視庁にキャリア採用されていた母親は男顔負けの活躍をしていた。だけど捜査一課という殺人犯罪を扱う部署にいたがため危険に巻き込まれることも多く、人を守るために若くして自身の命を落とした。
人を失うということは人の心に影を残す。天音の心にはまだ母親の面影がちらつくことがある。寺井に母親と間違われたときは左胸の辺りがぎゅっと締まる感覚であった。


「私、お母さんに似てきた?」

「外見は母さんそっくりだ」


歪かもしれない笑顔を浮かべて母親のことを訊けるようになったのは最近ようやくできるようになったこと。
仕事が忙しくて構ってもらえないことも多かったが、天音にとって自分の母親は自慢の母親であった。努力家で正義感が強く、純粋な心を持った媚びない性格。キャリア採用されたこともあり、容姿端麗・頭脳明快と言われた期待の星でもあったそうだ。真面目と言ってしまえば真面目だ。だけど大学在学中に父親と結婚をした上に仕事に支障を来たさないうちに子を産んでしまおう、という勢いの良さも持ち合わせていた。
そんな母親と、マイペースで気まぐれな掴みどころのない父親が結ばれたのは未だに不思議な話だ。


「残念ながら性格は父さんに似たかな」


自分で自分のことを貶す父親は薄笑いを浮かべた。笑ってしまっていいのかわからない天音は苦笑いを浮かべた。
自分を客観視するのはいまいち苦手だが、たしかにマイペースだからこそ興味のあることにしか深く知ろうという点は父親に似た気がすると天音は思っていた。


「きっとまた寺井さんからは連絡が来るだろう。このまま協力してやってくれないか?」

「このまま?」


このまま、ということは母親の振りをして対応をするようにということだろうか。それとも尋ねられたことに対して研究資料を使って教えていいということだろうか。おそらく両方共だろう。
「そうだ。パソコンのデータも見れるようにパスワードを教えよう」と楽しそうに言う父親に、結局ペースに乗せられて寺井との関係を訊くタイミングを損ねてしまったと天音は溜め息をついた。


「じっとしたまま動かず退屈なのはお前も嫌いだろう?」


溜め息をついていた天音にそういうと、彼女の父親は再び新聞を読み始めた。



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