「清水先輩。私、田中のゲロジャージを洗ってきます」
「その言い方ヤメテクダサイ!」
「うるさい」
「1人で平気?」
「問題ないです。軽く水で流すだけなので。そのまま上に行くので、こっちには戻りません」
「分かった。それじゃあ、また試合後に」
「はい」
移動前の準備やバスの中で慣れたのか、部員と気安い会話を交わす名前に縁下はほっと息をついた。
「灰崎さんはきっと、バレー部に入ると思いますよ」
部活の締めに顔を出し、そう縁下に耳打ちした武田の様は自信に満ちていた。
直接向き合い、感じ取ったものがあったらしい。
明日になれば分かりますと詳しく教えてもらえなかったせいか、名前の一挙一動が気になって仕方がなかった。
ボトルやビブスを用意する手つき、武田を伴って相手校の指導者へ挨拶、撮影交渉と無駄なものは1つもない。
その上、ビデオカメラは名前の自前と聞けば、マネージャーとしての矜持が透けて見え、自然と背筋が伸びた。
「縁下も緊張してんのか?」
「まさか。──今なら白鳥沢にだって勝てそうだ」
名前は何も言っていない。
けれど、全身から一種の脅迫のような鼓舞が聞こえる。
私が見ている前で負ける気か、と。
不思議と奮い立たされる。
それは「フヨ」と呼ばれる名前の魅力の1つだった。
「烏野高校対青葉城西高校、練習試合を始めます!」
「お願いします!」
双方のチームが礼をするのを横目に名前はスコアシートを取り出した。
相手チームのメンバー欄は、親切にもコーチの溝口が書いてくれており、烏野のメンバー欄も、フルネームを把握しきれなかった名前の代わりに武田が書いていた。
試合前の状態としては完璧だった。
前日の夜、名前はバレーボールについて一通り調べていた。
まず悩まされたのは、リベロの存在だった。
適宜、入れ替わるため、違反がないかの確認のためにリベロコントロールシートというものまである。
とはいえ、これに関しては自分の許容範囲を超えていると、今回は捨て置くことを早い段階で決めていた。
問題はスコアシートだった。
何度となく記入したバスケのものとは違い、1ショットで何得点したかは書かなくてもいいが、サーブ権の持ち主や誰の時の点数かを書かなくてはならず、勝手の違いに苦しんだ。
元々、名前の書くスコアシートは汚かった。
ショットの正確性だけではなく、リバウンドやスチールの成功率、ボールの保有率、パスの相手と回数など、その都度、書けるだけの情報を書き、ビデオを見ながら補填した上で清書したスコアシートを監督に渡していた。
どうしてもその癖が抜けない名前は、サーブを受けたレシーバー、アタッカーとそのコース、ブロックに飛んだ人と数を背番号で書き取っていく。
サーブは松川、レシーバーは日向、縁下、アタッカーは田中でストレート、ブロックは金田一、国見、花巻。
まだ1本目にもかかわらず、松川の欄の真上は5・3、2S、6・7・2と英数字が並んでいた。
「これは直さないとまずいかな」
録音されないように口元を手で覆い、ぽつりと呟く。
西谷が戻れば、ブロックアウトを拾う率は格段に上がる。
そうなればラリーの数も増え、目では追えても書ききれず、スコアシートとして機能しなくなる。
分かっていても、そう簡単に抜ける癖ではない。
──バチコーン!
ボールが影山の後頭部にぶつかった音でハッと我に返った時には、スコアシートは既に数字で真っ黒になっていた。
やってしまった。
日向と名前の心境は、その一言で完全に一致していた。
「良いかァ!バレーボールっつうのはなぁ!ネットの『こっち側』に居る全員、もれなく『味方』なんだよ!」
「──…いいなぁ」
田中の声に引きずられて出てきたのは、眠っていた名前の本音だった。
とうの昔に桃井が感じた、僅かな疎外感。
プレーヤーとマネージャーの間にある、どうしようもない隔たり。
帝光時代、名前はそれを感じ、寂しく思うことなどなかった。
虹村の延長線上でしかない帝光バスケ部の輪に、どうして入りたいと思うのか、名前にはまったく理解できなかったのだ。
それが、中学を卒業し、虹村が居なくなり、縁下と友人になり、圧倒的才能ではなく「頑張る」ことで繋がるチームを見て、少しずつ変化してきた。
青峰と黒子の二番煎じのような、日向と影山のコンビに特別惹かれるものはない。
いずれ、ミニゲームの後に名前がやったことの真意に気づき、2人は対立する。
勝ち抜けば勝ち抜くほどに、避けようがなくなる自明の理だ。
けれど、それさえも許容する素地を見せる烏野チームには、どうしようもなく惹かれた。
日向と影山のことはまだよく分からない。
分からないから、確実とは言えない。
言えないが、もしも、天才も凡人も許容できるチームなら、名前自身も溶け込めるのではないかと夢見てしまう。
それは、欲だった。
持った能力が無欲恬淡にさせていた、名前の欲。
そんな、とんでもないものを引き出した男は、自分の言葉がマネージャー獲得に繋がったとも知らずに、先輩という呼声に快活な笑顔で応えていた。
「試合終了!セットカウント、2 - 1。勝者、烏野高校!」
「あざーっしたーっ」
録画を切り、ビデオカメラとスコアシートを持って降りる。
折りたたみ式の三脚台は試合後、すかさずやって来た木下が持つと言って聞かなかった。
舞台袖に繋がる古くさい木の階段が、木下が話しかけようとするたびにギシギシと大きく鳴る。
決してわざとではないが、出鼻を挫くという意味では同じ事だった。
「武田先生は?」
「挨拶行ってる」
「え、置いて行かれた…。データのことで話があるから、私も向こう行ってくる。三脚台、バスに積み込んでおいて」
「はいはい」
他のコートから飛んでくるボールを躱し、ぺこぺこと頭を下げる武田の横に並んだ。
お疲れ様です、ありがとうございました、と常套句を告げた後、データについて持ち出すも機械に弱い入畑では話にならなかった。
溝口は、たった今、使いに出してしまったと頭を掻いた入畑は迷い無く岩泉を呼ぶ。
これは、名前にとっても好都合だった。
「烏野高校2年の灰崎です。お手数おかけしてすみません」
「いや、構わねぇ。3年の岩泉だ。副主将を任されてる」
「主将はピンチサーバーの人ですか?」
「ああ。撮影してたのに悪かったな、アイツのせいでうるさくて」
「元々、セット間の休憩分は無人のコートを撮していただけなので、編集するつもりだったんです。その時、外野の音量を調整すればいいだけの話なので問題ありません」
「そんなことできんのか。すげぇな」
「そう、でしょうか?」
名前にとっては当たり前のことだった。
帝光時代の先輩も後輩も、等しくできていた。
それを褒められ、口籠もる名前を謙遜していると取った岩泉は、誇っていいことだと再度、褒めた。
二度目ともなれば、素直に礼を言う他ない。
名前のありがとうございますの声を聞き、岩泉は満足げに頷いた。
「データはコーチのパソコンに……あ、しまった。そういや最近、壊したとか言ってたな…メアドは生きてても確認すんのが遅くなるか…」
「ロムに焼いて渡しましょうか?」
「いくらなんでも、そんな手間は掛けさせらんねぇ。俺のとこに送ってもらってもいいか?嫌なら監督のとこでもいいんだが」
「いえ、岩泉さんに送ります。失礼ながら、監督さんの所では少々、不安が…」
「だよな」
「送ったら連絡をしたいのでラインも教えてもらえますか?」
「ならアドレスはそっちから送る。なんか書くもんあるか?」
「書くもの……」
部活中の体育館で、副主将が他校の女子生徒と向き合って話している。
それが衆目を集めないわけがない。
気もそぞろな部員を微かに認識しながら、名前は非常に迷っていた。
書くものはある。
今、手にしているバインダーに挟まれたスコアシートの裏だ。
とはいえ、その裏にもびっしりと英数字やプレー中に見えた粗が書き込まれ、端の方に僅かなスペースが残るだけだった。
「そう渋んな。どうせ、うちもスコアは取ってる」
「いや、そういう意味じゃ…」
「じゃあ、何だよ」
「……分かりました。何を見ても、絶対、何も言わないでくださいね」
「どういう…、って………うわ…」
疑問を口にしようとした岩泉からは、心の底から退いたような声が出た。
名前は予想していた反応だと割り切り、スコアシートを裏返してペンと共に差し出した。
受け取った岩泉は、理解できない英数字に埋もれた日本語を拾い上げる。
「『6、跳び方知らず』『7、低燃費』って…」
「勝手に読まないでください」
「目に入るんだよ。何だこの暗号は」
「暗号です。いいから早く書いてください。あ、主将さんのフルネームも」
「あ"?何でクソ川の名前なんか」
「そのクソ川さんの名前、メンバー表に書いてなかったので」
「仕方ねぇな……」
「ついでに2年生のレギュラーを1人、紹介してほしいんですよね。来年のために」
「お前、意外とちゃっかりしてんな」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇ。ほらよ。……渡!ちょっとこっち来てくれ」
名前にバインダーとペンを返し、渡を呼びつける。
そこで、試合の反省をしていたはずのレギュラーが、ニヤニヤと意味深に笑っているのが目に入り、岩泉の額に青筋が浮かぶ。
平素であれば、蜘蛛の子を散らすように練習を再開するが、距離が彼らに余裕を与えていた。
岩泉は後で全員シバくと心に決めた。
「そういうことなら僕とも連絡先交換しよう。えっと、何か書くもの…あ、ありが…うわぁ……す、すごいスコアだね………」
「渡、正直に言っていいんだぞ」
「渡くんは優しいんです。岩泉さんと違って」
「初対面のくせに俺の何を知ってるんだ」
「特別なことは何も。ただ、まったく知らないという訳でもないんですよね」
「は?」
「灰崎さん、そろそろ学校に戻りますよ!」
「はい、今行きます!ではお2人とも、後で連絡しますね。今日はありがとうございました」
疑問の種を蒔くだけ蒔いて、育たせたものの収穫はせず。
ある意味、名前らしい会話の終え方に、岩泉と渡は揃って苦笑いを浮かべた。
糸を垂らして影山を引いたつもりが、名前という珍妙な者までついてきた。
「『6、跳び方知らず』『7、低燃費』ねぇ…」
「金田一と国見のことですよね」
「だろうな。国見はともかく、金田一のことは一緒に練習してた俺らの中でも、及川しか気づかなかったことだ」
「灰崎さんのことも注視しとかないと」
「そうだな…ところで、及川はどこ行った?灰崎との話に入ってこなかったから、おかしいとは思ってたんだが」
「あー…烏野のもう1人のマネの人に話し掛けて無視されてたのは見ましたけど…」
「あのボケが…!」
前門の虎後門の狼ならぬ、前門の及川後門の岩泉。
挟まれた烏野勢のうち、呑気に笑っていられたのは武田と名前、そこに合流した清水の3人だけだった。
武田と清水が聞きたいけれど聞けないと、そわそわしていると知りながら無視し、名前はポケットに押し込んでいた紙を取り出した。
「武田先生、これ、預かっていてくれませんか?」
それは記入済みの入部届だった。
喜色満面の2人だが、名前が一筋縄で入部を決めるなら縁下がとうに引っ張り込んでいる。
付き合いの希薄さは名前を見誤らせた。
「全員揃ったら、もう一度声をかけてください」
「は、灰崎さんは諸葛孔明か何かですか…?」
「全員…?」
職員室で名前は度々、その優秀さが話題になる。
三顧の礼で迎えよと言われても不思議ではないと武田が目眩を覚える横で、清水がメインとなる言葉を冷静に拾った。
「1軍2軍のあるような人数の多い部活ならともかく、レギュラーと控え程度の部員数で異物を入れると危険なんですよ。ましてやそれが私みたいなのとなれば、誰のどんな感情を爆発させるか分からない」
「全員っていうのは東峰と西谷のこと?」
「その2人もですが、もう1人」
「もう1人?」
「うちのバレー部はそれで全員ですが…」
「指導者。武田先生、声をかけているでしょう?」
「……灰崎さんは諸葛孔明か何かですか?」
「だって先生は、生徒の本気に本気で返してくれるじゃないですか」
うちの適当な担任と違って、とからから笑う名前は、武田と清水が返す言葉を失ったのをいいことに黒いジャージの一団に目を向ける。
入部届を預けたものの、名前は自分があのジャージを着て一緒に歩いている姿が、どうしても想像できなかった。
黒を蹴散らし、不敵な笑みで離れていく白地のジャージ。
あちらの方がよほど、自分に馴染む気がした。
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