「灰崎、ちょっといいか」
縁下が名前の所に顔を出したのは、その日の放課後だった。
教室には既に木下の姿はない。
部活が始まっていると明白な時間の邂逅に名前は隠しもせずに面倒くさそうな顔をした。
渾身の嫌がらせであったはずの騒ぎも、想定していたものと別の騒ぎを起こした。
特筆すべきは、名前の中ではそれを収めてやったことになっているということだ。
「昼のは武田先生が取り成してくれた。礼言っとけよ」
この発言に眉をひそめるのは当然といえば当然のことだった。
けれども口には出さず、用件を尋ねた。
名前の前の席に腰を降ろし、長居する気を見せた縁下は単刀直入に入部しろと告げた。
考えさせてと言ったはずだと反論しても、週末があっただろうと撥ね返される。
名前は深く長いため息をついた。
「先生への恩を押し売りする気?残念だけど呼び出しはかからない。将来、学校の実績作りに貢献しそうな生徒に私怨染みた指導はできないもの。でもそうね、後で先生のところに顔を出すことにする。他は?私、今日は予定があるの」
「明日は?」
「明日は何もないけど」
「そうか」
「…もういい?いいなら鍵閉めるから出て」
「青城との練習試合、明日なんだ。県のベスト4となんてそう何度も組めない。だから灰崎には明日、どうしてもついてきてほしい。武田先生は入部を検討しているなら特別に同行を許可すると言ってくれた」
差し出される白紙の入部届。
名前は、あまりの既視感に気が狂うかのような心地がした。
あの日、弟のものと一緒に出したはずの退部届は、顧問が処理する前に虹村の手によって突き返された。
「──俺たちにはお前が必要だ」
これは、既視感どころの話ではない。
一言一句、同じものが二重に聞こえる。
「……縁下、家族は元気?」
「は?元気だけど」
思わず問いかけてしまった。
何せ、それを最初に言った虹村は父親の病気を理由に主将の座を明け渡していた。
ケータイの所持に厳しい帝光で常に持ち歩き、震えるたびに顔を真っ青にして画面を覗く。
ずるずると壁により掛かったまましゃがみ込み、項垂れるその隣に寄り添ったのは、一度や二度ではない。
名前が高校でバスケ部に入らなかったのはバスケに見切りをつけたから。
だが、そこに至るのには虹村の影響があった。
名前順で隣になっただけの相手を、自分がより練習をしたいからという理由でマネージャーとして引っ張り込むくらい、虹村はバスケが好きだった。
引っ張り込まれた名前は、それを一番よく分かっていた。
好きで好きで堪らないのに続けられない。
そんな姿を見ていて、好きでもないのに惰性で続けるような真似はできなかった。
名前のバスケは、虹村にくれてやったのだ。
虹村のバスケを支えてやるためだけの、バスケだったのだ。
中学を卒業し、キセキの世代の活躍を耳にしても何の感慨もなかったことで、名前はようやくそれに気がついた。
虹村のため。
それはひどく困難で、それでいて途轍もないほどに楽しいものだった。
名前には分かっていた。
己が満たされるには、持てるすべてで誰かを支え、同じ夢を追い、掴み取ればいいのだと。
それでも踏み出せずにいたのは、虹村の存在の大きさと、縁下との間に起きた言い争いが、名前の中で妨げとなっているから。
四つ折りの皺がついた入部届から、縁下へと視線を戻す。
虹村と同じくらい縁下を支える気になるかと問われれば、首を横に振るだろう。
それは直感的なもので、名前自身にどうこうできる範囲にない。
縁下1人では、役者不足だ。
とはいえ、ミニゲームを見たあの日に予兆めいたものを感じたのを否定する気はない。
烏野バレー部なら、と期待する名前は確かにいるのだ。
だからこそ、しっかりと考えたかった。
「入部届は書かない。バスケ部の時のように受動的だと虚無感しか残らないから。…練習試合で私に入部を決意させてほしい。できなければ、今後一切、この話は無し。それがお互いのためだ。いい?」
「……分かった。先生には俺から伝えておく」
「部活行きなよ。どうせ鍵を返しに職員室に行くから、先生には自分で言う」
「用があるんだろ?」
「そう思うなら早く出て」
縁下を責付いて戸締まりを済ませ、職員室へと向かう。
教科ごとの会議あったのか、いくつかの固まりで教員が戻ってきたところだった。
「おー、灰崎。鍵か?」
「はい。お願いしてもいいですか?」
「はいよ。にしても、お前もおとなしそうな顔してヤンチャだな。教頭に呼び出された時は正直、やってくれたと思ったよ」
「…すみません。ご迷惑おかけしました」
「俺のクラスからは二度と停学者は出さねぇと西谷の時、決めたんだ。程々にしてくれや」
「それは先生の都合じゃ……いえ、何でもないです。武田先生はいらっしゃいますか?」
「武田先生は……まだ戻ってないな。急ぎなら国語科の教科準備室に行ってみろ」
「分かりました。失礼します」
すっかりと予定が狂ってしまった。
名前は廊下に人がいないのをいいことに京谷に連絡を入れる。
今日は練習を見る約束だったが、移動時間を考慮すると果たせそうになかった。
たまたまケータイを見ていたのか、即座に電話がかかってきたものの、名前に出るという選択肢はなかった。
情け容赦なく電源を落とし、約束を無かったことにした。
「失礼します、武田先生はいらっしゃいますか?」
「はい、いますよ。…おや、灰崎さん。どうしましたか?」
「お昼のことでちょっと…」
「ああ……、灰崎さんも高校生らしくちゃんとヤンチャしててくれて安心しました。でも今度は引き際をスマートに纏めてください。他を置いてきぼりにせずに、ね」
「善処します。あの、別件で少しお話したいことがあるんですが」
「そうなんですか?なら、中でプリント整理を手伝ってもらっても?安原先生には逃げられてしまったんですよね」
「うちの担任が失礼を。喜んでお手伝いします」
「ありがとう。あ、扉は開けたままで」
「…昨今の風潮は面倒ですね」
「灰崎さんの察しが良すぎて吃驚です」
教員には、異性の生徒──特に女子生徒と2人きりになる時は部屋を閉め切ってはならないという暗黙のルールがある。
無用の誤解を招くのを避けるため、もし騒ぎになってしまった時に教員の逃げ道を作るため。
様々な理由はあるが、名前はこの互いを信用していないかのようなルールが好きではなかった。
秘密裏に相談したいことは同性の教員にしろと言うのか。
では、担任が異性であったら、クラスでの悩みはオープンな話し合いに持ち込むしかないのか。
とはいえ、抗うほど世情に疎いわけでもない。
名前は言われた通り、扉を開けたまま中に入った。
「青城との練習試合、明日ですよね」
「なるほど。入部を迷ってるというのは灰崎さんのことだったんですか」
「縁下が言っていたのなら、私のことです」
「明日はどうしますか?」
「ご迷惑おかけしますが、どうか連れて行ってください」
「分かりました。では明日は特別にマネージャーとして連れて行きましょう」
「ありがとうございます。それで、当日のことなんですが、ビデオを撮る人材はいますか?」
「ビデオですか?」
「私が入部するしないは別として、県内4強のデータは取っておいて損はありません。幸か不幸か、烏野はメンバーが揃いきっていない。青城側にも映像を渡すという条件を付けても、得られるものは大きいです」
「…確かにその通りですね。学校の備品が使えるか確認しておきます」
「恐らく使えないかと。明日はバスケ部も練習試合と聞いているので。という訳で、私物のビデオカメラを持って行っても良いですか?もちろん、登校したら先生に預けます。もし壊れても、関知していないと言ってくださって大丈夫です。許可してもらえませんか?」
「…灰崎さんは、マネージャー経験者ですか?」
「え?ああ、はい。バスケ部ですけど」
「そうですか。頼もしいです」
武田のにっこりとした笑みを見て、名前は自分の多弁さを思い知る。
どうしてこんなにも熱っぽくビデオを撮る有用性を語っているのだろう。
恥じる思いで持ち込み許可の声に頷いた。
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