──…練習試合で私に入部を決意させてほしい。
繰り返し繰り返し、脳内を駆け巡る。
そのせいでここ数日、縁下のつくため息の数は急激に増えた。
──できなければ、今後一切、この話は無し。
また1つ、ため息が漏れる。
青城との練習試合には勝った。
辛勝といった内容ではあったが、勝ちは勝ちだ。
エースとリベロを欠いたメンバーで見せられる最大限のものだったという自負がある。
だからこそ、余計に名前の反応に落胆した。
試合から数日経った今も、名前の入部届は職員室の武田の机に仕舞われている。
しかし、それを知るのは練習試合後に名前と行動を共にしていた武田と清水だけだった。
当然、帰途のバスの中で縁下は尋ねた。
どうだったか、と。
名前はふっと笑みを溢しただけで何も言わなかった。

「知ってたさ…アイツの誤解を招く言動のタチの悪さは…!」
「お、落ち着けよ、縁下…」

成田の声などまるで耳に入らない。
知っていたのに、都合の良い方に解釈した自分の短慮に腹が立って仕方がない。
木下から、名前は昼休みにふらりと教室を出て行くくらいで、それまでとほとんど変わらない様子だと聞き、益々苛立つ。
入るなら入る、入らないなら入らないで、言ってくれてもいいではないか。
縁下の不満は溜まる一方だった。
他方、名前はといえば清水と共に情報室に籠もっていた。
大きなプロジェクターには、試合の映像が流れており、清水がせっせとスコアシートを書いている。

「名前ちゃん、この時って…」
「ああ、はい。ちょっと待ってください」

名前は絶え間なくキーボードを叩いていた指を止め、清水の手元と一時停止された画面を見比べた後、あれやこれやとレクチャーをする。
昼休みに行われていたのはスコアシートの書き方講座だった。
名前がバスの中で試合中に書き取ったものから、本来書くべきスコアのみ予備の紙に書き写しているのを見た清水が願い出た結果、行われることになった。
曰く、部室の片隅にスコアシートの貼られた古いノートが何冊かあるが、部員は開くどころか、そもそも読み方を知らないらしい。
巷間の話題であった烏養の監督時代は、強豪の名に恥じぬ指導がされ、たとえミニゲームだろうと試合形式の時には記入係がおり、部員すべてが当然のように読むことができたのだろう。
名前の中の運動部のイメージとは正しくこれで、事実、帝光でそうしてきたこともあり、部員の現状の意味が分からなかった。
どうしようもなく勉強のできない青峰や黄瀬でさえ、スコアの読み方くらいは自発的に学びに来たのに。
高校から始めた清水はともかく、経験者であろうプレーヤーたちは何故、あると知りながら放置しているのか。
戦略を立てるのに頭の中だけでは限界がある。
そもそも、想像した通りの展開になることなど、ほとんどない。
つまりは多くの試合を見て、実際にあった流れを掴み、対策を講じることが勝つための絶対条件であるということだ。
無意識のうちに思いつくというのは、どこかで必ずそれのヒントになることを見ている。
閃きは素地のない者には生まれない、が名前の持論だった。
この講座も、もう3回目。
当初は受験生の清水を気遣い、課題を出すつもりのなかった名前だが、やるなら徹底的にやりたいという清水の意思を尊重し、練習試合のデータに加えて京谷が録画していたプロの試合のロムを貸し出した。
なお、京谷には事後承諾である。
名前は昼休みに清水の書いてきたスコアシートの確認と解説を行い、新しいロムを渡していた。
清水はその解説を元に家でもう一度、満点のものを作ってから、新しい試合のスコアシート作成に取り組むという流れだ。
名前の最低限の配慮として、3セットマッチの極力短い時間のものを渡していたが、慣れない作業ともあれば1時間2時間など、あっという間に過ぎる。
授業で出される課題も考えれば、清水の負担は急激に増したが、懸命に熟したことで随分と身についた。
高校生の短期集中の爆発力を侮るなかれ。

「もう大丈夫そうですね。数を重ねていけば、書くスピードは上がりますし、読んで流れを想像するのも容易くなりますから心配はいりません」
「そっか…良かった…」
「まぁ、私も書けるようになったのは最近なんですけど。エラそうにしてすみません」
「いいの。名前ちゃんが居なかったら、あの紙の意味も知らずに卒業してたから。お昼、付き合ってくれてありがとね」
「いえいえ、清水先輩とご一緒できて望外の喜びです、なんて」
「名前ちゃんもそういうこと言うんだ…」

田中や西谷を思い出し、呆れを含んだ笑みを浮かべた清水は、名前の向き合うパソコンに目を向ける。
幅広の画面を二分し、左側ではプロジェクターに映るものとはまた別の試合映像が一時停止され、右側ではいくつもの数字が打ち込まれたエクセルが起動されている。

「高校バレーの注目度の低さに辟易しているところですよ」

清水の視線の先に気づき、名前は嘆息を漏らす。
バスケならばいざ知らず、バレーでは灰崎名前のネームバリューはまるで役に立たない。
かつてはできていた偵察も、帝光の露出が多かったことに加え、偵察を許可した学校にも分析結果を共有するという条件付きで行っていた。
中学生を1人、他校にやるわけにもいかず、カメラ担当として引率者までいる始末。
要は偵察であって偵察ではなかったのだが、それはさておき。
練習試合を組むのもままならない烏野で、他校の情報を集めようにも、公に配信されたインターハイや春高の決勝しか映像がない。
県予選すら突破できないのに、対策を取るには過ぎたる目標だ。
ローカル局やCS放送でも、大会近くにならなければ試合の再放送はしないし、したところで良くて県予選の準決勝、決勝のダイジェスト版が放送されるだけで参考にならない。
頼みの綱であった京谷の部屋には、プロの試合のロムはあっても、同世代の試合のロムは無かった。
登校拒否ならぬ登部拒否している人間が、そんな映像を後生大事に残しているわけがない。
当然の帰結だが、やや余裕の無くなっていた名前は理不尽にも八つ当たりし、いつかと同じように京谷のベッドを占拠したのだった。

「なんとか情報収集したいんですけど、こればっかりはコーチにお願いするしかないですね。虎の威なのは否めませんが」
「コーチのこと知ってるの?」
「いいえ、でも予想はついてます。教えるので、部活の時に縁下に『当たってたら肉まん奢って』と伝えてくれますか?」

私は今、縁下に意地悪してるところなので。
つんとむくれた名前を見て、清水はここ数日、珍しくも不満を顔に出す縁下を思い出す。
想定していたよりもずっと、名前と縁下は仲が良いらしい。
バレー部が原因で亀裂が入ってしまったのではないかと、深刻に捉えていたのがいっそ馬鹿らしくなってくる。
清水は目を細め、この他愛ないじゃれ合いに付き合うことにした。

「縁下、ちょっといい?」
「あ、はい、何ですか?」
「ちょっと、伝言」
「伝言?」
「──皆、ちょっといいかな」

武田の声に割り入られ、縁下は伝言を聞くことができなかった。
清水もまた、武田の横に並ぶ男の紹介を耳に、正確な伝言をすることができなくなった。
試合をすると俄に慌ただしくなる中、致し方ないと縁下の背を軽く叩いて告げる。

「肉まん」
「え?」
「奢って、って。名前ちゃんが」
「は?奢り?というか、『名前ちゃん』?え、清水先輩、いつの間に灰崎と仲良くなったんですか?」
「おいコラ、力!潔子さんの邪魔すんな!」
「そうだぞ、縁下コラァ!アップの人数足んねぇだろが!」

西谷はともかく、田中のヤジには反論の余地がない。
縁下はひとまずグッと押し黙ることにした。
清水は清水で、試合をするならばと武田に許可を取り、職員室に駆け足で向かう。
撮影機器を借りるためだった。
充電されていることを確認し、職員室を出た清水は、ふと思い立って寄り道をした。
そこは未だ煌々と明かりが点き、目当ての人物は在室のようだった。

「部員もコーチも揃ったよ」

清水自身も唐突な物言いだと思ったそれに、名前は茶目っ気たっぷりに返す。
私は縁下に肉まんを奢ってもらえますか?
それを聞き、知らず知らずのうちに入っていた力はゆるりと抜けていった。

「これから試合をするの。見に来られないかな?」
「分かりました。目処がつき次第、向かいます。あ、白紙のスコアシートありますけど持って行きますか?」
「大丈夫、ファイルの中に入ってるから」
「そうですか」
「それじゃあ、待ってるね」
「はい」

色好い返事に浮き足立つ己を叱咤し、体育館へと急ぐ。
戻った時には大人が数名増えていたが、気にせず準備を始めた。
危ないからと、武田によって設置されたビデオカメラの横で、清水はスコアシートに視線を落とす。
頼んで書いてもらったメンバー表には、括弧で電やらマートやらが記入されていたが、大人のやることはよく分からんと受け流し、試合に集中する。
清水にとって、これが初めての実践練習だった。
サーブ権を持った人の欄にチェックを入れ、ボールの動きを注視する。
いつでも止められたデータとは訳が違う。
物凄いスピードでボールが行き交い、広くはないコートの中を人が入り乱れ、大きく跳び上がる。
カメラの映り具合や、名前はいつ来るのかなどを気にする余裕はあっという間になくなった。
僅かでもコートから目を離せば、展開についていけず、置いて行かれてしまう緊張感。
清水は改めて名前は凄いと思った。

「試合だって聞いて見に来たんですけど、違ったみたいですね。お邪魔しました」
「うわああ、灰崎さん!待ってください!試合!試合ですから!」

名前が体育館に顔を出したのは、日向と影山の起こした一悶着の最中だった。
見回りで終了を促しに来た教員と共にやって来たのを、武田が慌てて引き止める。
逃がすまいと扉を閉め、仁王立ちする武田から清水へと視線を移した後、名前はコートへと向き直った。
烏養の横で観戦することにしたらしい。
鞄の中から紙を取り出し、教科書を下敷きにして観察する様子を見せた。
第2セット、14 - 08 。
試合終了のホイッスルが鳴るにはまだ早い。

「躱せ!それ以外にできることあんのか、ボゲェ!!」

影山の怒声が響く。
それとほぼ同時に、日向は後方へステップし、目を見張るような瞬発力で逆サイドへと移動する。
最初の軌道につられ、ブロックが間抜けに跳び上がった時には、ボールが日向の手から打ち下ろされていた。
誰にも止められない、完璧な速攻だった。

「──それでもお前は、今の自分の役割がカッコ悪いと思うのか!」
「……思わない」
「あ?」
「思わない!」
「よし!」

わだかまりが解け、共に試合の続きをと頭を下げる2人に周囲がほっと息をつく中、名前は眉を寄せて秘かに「バランサーの欠如」と書き記す。
必要なぶつかり合いではあったが、それを片方が主導して行うのはいただけない。
ペアというのは、何かの拍子にあっさりとパワーバランスが崩れる。
そうしてもたらされるのは、出来ていたことが出来なくなるという莫大なストレスだ。
上手下手で言えば、当然のことながら影山に軍配が上がるが、ポジションで考えれば日向へと変化する。
こうも危ういペアに頼り切ったチームメイクをするということは、瓦解を前提としていると言ってもいい。
無論、そんな綱渡りは御免である。
名前は満遍なく部員を眺め、考える。
恐らく、双方の言い分を引き出して間を取り持つよりも、それぞれの意を汲み取って先手を打つような形の方が望ましい。
菅原なら、影山の言い分を誤解なく伝えることができるだろうが、同じポジションだからこそ、無意識に影山に寄ることは否めない。
仮に菅原が上手く立ち回ったとして、その後釜は誰が務めるのか。
気質としては見極めるべくもなく縁下だが、実際に出来るかは日向と影山との相性にもよる。
穴だらけのレシーブも含め、問題は山積しているが、名前は胸躍る自分がいることに安心した。
縁下に希われたから、ではない。
名前自身が、バレー部に関わってみたいと思ったのだ。
この選択に誤りがあったとしても、後悔だけは絶対にしないと言い切れる。

「そうですね、ひとまずコーチが気に入りません」

とはいえ、それとこれとは話が別。
試合が終わり、意を決して感想を尋ねた武田へ穏やかに微笑みながら告げた。
不愉快に感じた烏養が大人げもなく真顔を向けたのに対し、名前は審判として中央に立っていた成田を指差す。

「烏養さん、あれ、何ですか?」

あれ呼ばわりされた成田に部員の同情が集まるも、言葉を挟む隙がない。
指名を受けた烏養もまた、輪郭のぼやけた質問に答えあぐねている。
名前は返答を待つことなく、今度はスコアボードの左右に立つ木下と山口を指す。

「あれと、あれは?」
「…部員だろ?」
「ええ、部員です」

自信なさげな、尻窄まりの烏養に、名前の目は三日月に細められ、笑みが深まる。
突如、話題にされた3人の困惑をよそに、ゆったりとした口調で今一度、部員です、と言った名前の真意を咀嚼する間が、烏養に与えられることはなかった。

「成田も木下も山口くんも、皆、烏野排球部の大事な戦力です。この場に居るのは決して、OBの方たちが試合を楽しむためにピッピピッピと笛を吹くためでも、日めくりカレンダーよろしくスコアボードをめくるためでもないんです」

名前の言い分に、女子高生に翻弄されていると烏養を笑っていた町内会チームの面々は、顔色を失った。
いくら烏養に頼まれたからといって、懐かしいからといって、現役を退けていい理由にはならない。

「スタメンが怪我や病気で入れ替えざるをえない。そんな時の頼れる味方を、その能力を、今見ないで今後どう指導していくのか、教えてくれませんか、コーチ」

嫌みたっぷりにコーチを強調した名前に、烏養だけでなく、町内会チームが勢い良く頭を下げた。
大の男が揃いも揃って、10代の小娘に平伏している。
然ような異様な状況に興奮しているのは西谷と田中だけだった。

「俺らの時のマネージャー……こんな怖かったっけ?」
「いや、なんかもう、…思い出補正で超優しかったことになってる……」
「……でも年下の女の子に怒られるとか新鮮すぎて、ぶっちゃけドキっとしました」
「お前それ、吊り橋だから。非常時の心拍数で恋と勘違いするやつだから」

許された途端、口々にくだらない話をし始める。
大人とはなんと面の皮の厚い生き物か。
名前はマネージャーではないと否定するタイミングを掴めずにいる部員を前に、当の本人はすっと片手を挙げた。

「あ。私、今日から入部するので宜しくお願いします」

3拍ほどの間の後、体育館を揺らすかのような大声が響く。
縁下は自分の苦労の報われ方が、よもやこんなにもあっさりとしたものになるとは夢にも思わず、呆けるばかりだった。


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