「お前、何者だ。化け物か」
次の日の土曜日。
どうにか都合をつけて午前の練習から顔を出した烏養は、清水と話し合っていた名前を指差し言った。
だが、挨拶すらせず体育館に踏み込んだ烏養の扱いなど、清水や縁下、影山といった一部のバレー部員には容易く予想がついた。
「…ということなので、今日は多めに水分を用意した方がいいと思います」
「ならジャグを出そう。確か去年使ってたのが奥に置いてあったはず」
当然、無視である。
加えて、清水が同調しての無視。
目が合った上でのこの扱いに、ひくりと頬を引き攣らせる烏養に、影山がひどく実感のこもった声で自己紹介と挨拶だと告げる。
要領を得ない説明ながらも、事の次第を理解した烏養は出入り口へと戻り、名前、年齢、バレー部時代のポジション、身長体重、食べ物の好き嫌い等々、これまた数人に既視感を覚えさせる項目の列挙をした後、挨拶をして中へと入った。
3年が感心したような声を出した横で、縁下は名前を引き入れることの厄介さを自覚し始めていた。
「ご丁寧にどうも、灰崎です。それで?朝から体育館前で恥ずかしげも無く自己アピールをした烏養さんは、人を化け物呼ばわりして何がしたいんですか?」
「お前がやらせたんだろうが!」
「烏養さんと話すのは今日はこれが初めてですけど」
「…もういい。それよりこれだ。お前、これ何日でやった?」
烏養が突き付けたのは、透明なファイルに入れられたやけに厚みのある紙の束だった。
気になった武田がファイルを受け取り、中身に目を通すのを、部員たちもまた前から後ろからわらわらと覗き込む。
その内容は、青城との練習試合のスコアシート、両校それぞれのメンバーのデータ、両校のチームとしての成熟度を数値化したものなど様々だった。
「んー…3日くらいですかねぇ…。他にもやることがあったので、のんびりやってました」
「3日!?この量をか!?」
「そうは言っても、たったの1試合分ですよ?あの日のコンディション報告でしかないですし、軽く読み流せたでしょう?」
「1晩中読んでも読み切れなかったわ!悪かったな!無能で!」
「被害妄想です」
「灰崎、この個人データ、それぞれに配ってもいいか?」
「え、駄目だけど」
「は?」
「いやだから、駄目だってば。というか皆さんも勝手に見ないでください。それはコーチにだけ伝えた私のすべてです」
「またお前はそういうことを……」
「えっと、灰崎のできることすべて、ってことだよな?」
耐性のついた縁下と木下が言葉を補うと、ざわめきは吐息へと変わった。
名前は武田からファイルを受け取り、おもむろに問いかけた。
「この中でスコアシートの読み書きできる人、どれだけ居ますか?」
「…できる」
「ええ、清水先輩は完璧です」
「なんと!」
「さすが、潔子さん!」
「そこのうるさい2人組は?」
「できねぇ!」
「つか、見た覚えもねぇ!日向もだろ?」
「え、あ、はい!」
ギャハハと大口を開けて笑う西谷と田中、そしてそれに煽られながら頷く日向に閉口頓首の名前。
その様を哀れに思ったのか、澤村や菅原が問いへの戸惑いから復活した。
「俺は読めると思う。中学の時にはそれで打ち合わせとかしてたし、何回か見れば思い出すはず」
「俺はどっちも無理だな。そういえば、大地は中学の時も主将やったんだよな。俺のとこも主将とマネは読めてたよ。旭は?」
「あー…うちもそうだったような。いや、ただ単に俺がボール追うので必死だったからスコアにまで気が回んなかったってだけかも…」
それぞれが中学時代の回想をしつつ、答える。
そのほとんどが読めない上に書けないという返しで、名前は部室に宝の山が放置されていた理由を悟った。
帝光の当たり前が悉く、否定されていく。
その対応に迷うこともあるが、これが自分たちに追い縋る数多の「普通」のチームの状態だと思えば、関心事の1つとして受け入れられた。
これでは差がついて然るべきだ。
今更ながら、負け無しであった訳を知る。
ただただ個々の選手の能力の差ではなく、相手方のチームメイクの瑕疵だったのだ、と。
「え、それって皆できるもんじゃないんすか?」
案の定、影山は名前の想定通りの反応を見せた。
ことこの点においては、影山は名前と同じように困惑しているに違いない。
名前は、強豪校出身である西谷もまた同様かと思っていたが、反応を見てあの性格とリベロという特殊なポジションがスコアから遠ざけていたのだろうと推察するに落ち着いた。
しかし、それでは困るのだ。
「なるほど、よく分かりました。では影山くんはこれをどうぞ」
「え!何で影山だけ!?」
「いい質問です、日向くん。それは他の方々があまりにも不甲斐ないからです」
後でもう一度渡しますね、と烏養にフォローを入れつつ、影山にだけ青城戦の個人データを渡す。
そこにはマッチアップ時のブロック、アタックの成功率、サーブの決定率並びに拾われたコース等だけではなく、セッターとして使ったアタッカーとそのコース、得点に繋がったか否かまで、あらゆる情報が詰め込まれていた。
名前は、個人データ表に所見や助言を書くことをしない。
とにかく私見を排し、ただひたすらに数字を突きつけるのだ。
反論を許さない事実だけのそれは、選手のプライドを大いに刺激すると名前はよくよく分かっていた。
食い入るように目を落とす影山を横目に、ずらりと並んだ面々に告げる。
「スコアが書けるということは、書かないときには更に集中して相手を観察できるということです。スコアを読めるということは、試合を反芻することであり、新たな展開を呼び込めるということです。──役に立たないなら、誰もスコアなんてつけないんですよ」
烏養も武田も、名前の言葉に一理あると静観の構えであるのをいいことに、マネージャーとしては完全に逸脱した提案をする。
「読めるという澤村先輩と影山くんは確認ということで10分、その他の人は20分、練習中に時間をくれませんか?」
「何するつもりだ?」
「ミニゲーム以外の練習時間に1人ずつ、情報室で青城戦のロムを見ながら書いてもらいます。一度で満点のスコアシートができればよし、できなければ再度、10分なり20分なり練習を抜けて参加してもらいます」
「せっかくコーチが来てくれてんだし、宿題みたいな感じじゃ駄目なのか?」
「見たこともないのに大きく出たわね、田中」
「うっ…」
「皆、練習時間が減ると思ったら必死になるでしょう?できた人には、昨日の試合を含めた個人データを渡します。影山くんは昨日の分だけになるね。あ、木下たちは今日明日の練習でデータ取るから、ちょっと待ってほしいんだけど…。どうですか?判断はキャプテンやコーチにお任せします」
「ちなみにやらない場合はそのデータはどうなるんだ?」
「コーチにのみ渡して練習に反映させるだけで、皆さんの手には渡りません」
「やるぞ、お前ら」
「やれ、お前ら」
やや渋っていた澤村と烏養が鮮やかに手のひらを返す。
前者はちらりと見えた紙の有用性に惹かれて、後者は選手を把握するのに掛かり切りでコーチングに手が回らなくなるのを恐れての判断だった。
気を利かせた武田が情報室の鍵を取りに行く中、名前は2年と日向、清水は3年と他の1年を監督することに決めて、二手に分かれる。
お互い経験者の余裕か、周囲を驚かせるほどの見事な役割分担だった。
「灰崎ー、入るぞー」
「どうぞー」
練習の最初から3年が居ないのは締まらないという理由で、情報室には名前が控えていた。
1番始めに訪れたのは木下。
名前と、どう会話していいのか、何をするのか、どうしようもなく緊張した田中と西谷によって、斬り込み隊長として送り込まれていた。
スターティングメンバー、場所、日付、審判員氏名などが予め打ち込まれているスコアシートを渡され、スクリーンが見やすい席に着く。
キーボードを押しやり、書くスペースを作ると名前は横の席に腰掛け、第1セットという枠を指で囲んだ。
その枠は左右2つに区切られ、同じようにローマ数字と算用数字が書かれている。
「審判から見て左側のコートなら左、右側のコートなら右にそれぞれのメンバーの背番号を書くの。カメラはちょうど審判側から撮ってたから、この場合は?」
「えーっと、左に烏野、右に青城だな」
「正解。チェンジコートしたら左右変わるのに注意ね。それで、このローマ数字の下にサービス順で背番号を書く。青城は2番からで次が…」
「ああ、ちょっと待った。今書くから」
何度も見てサービス順を覚えている名前が、つらつらと数字を言うのを慌てて書き取っていく。
T から Y までの欄を数字で埋め、サーブを選択した青城はS、コートを選択した烏野はLをバツ印する。
これだけで既に書いてもいない先攻後攻や、ローテーション、誰と誰がマッチアップするかが分かる。
スコアシートは、読むのも書くのもできなければならない代物だ。
そう実感できた途端、思わず安堵した。
正直なところ、木下はまさに字面通り、昨日今日の新入部員である名前が半ば強引に誘導、押し切ったことに気を揉んでいた。
縁下ほどではないにしろ、名前の人となりを理解した手前、何かの拍子に他の部員に疎まれたり、煩わしく思われたりするのは避けたかった。
──成田も木下も山口くんも、皆、烏野排球部の大事な戦力です。
名前のその言葉は、木下の背を引っ掴み、しゃんと立たせるものだった。
山口には、1年で1人だけ外された疎外感が巣くっているものの、それでも奮い立つ思いがある。
ところが、成田も木下も一度逃げた負い目や、自分たち以上の技術や身体能力を持った1年を前に、へこたれてしまった。
昨日の試合も、烏養や町内会チームは謝罪を口にする必要などなかった。
何故なら2人は進んで審判や、スコアボードをめくっていたのだから。
部活に参加しているだけで、またも逃げていたのだから。
それを気づかせてくれた名前を、仲間として大事にしたいと思うのは当然のことだった。
しかし、口に出せるほどの男気はない。
「木下?続きいい?」
「…おう」
初対面だった離任式の日からずっと、木下は名前に何かしら思うことがあったら麩菓子を買って渡していた。
忘れていた課題を見せてもらった日、少し言い争いをした日、うたた寝姿をじっと見てしまった日。
木下の渡した麩菓子は、名前の手によって必ず半分になって返ってきた。
それは逆も然りで、麩菓子はお互いへの感情表現の1つになっていた。
いつだって甘ったるい、隙間だらけの税別80円にどんな思いを詰めたのか、共に並んで噛み締める。
その様は、2年2組ですっかりお馴染みになっていた。
「サーバーがボールを持ったらチェックを入れて…」
名前の説明を耳に、視線をスクリーンとスコアシートを行き来させながら思った。
昼休憩に麩菓子を買いに行こう、と。
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