テスト明けの部活は、いつも以上に厳しい。
1週間で鈍った身体を鍛えなおそうと、いつも以上に部員を叱咤する鷲匠監督や斉藤コーチの声、それに文句をたれる天童の声が体育館に響いていた。
そんな中、瀬見は自分の心に素直に従い、こっそりと練習を抜け出した。
どんなに好きなことでも、気怠いものは気怠い。

「ちゃんと部活に出ないと駄目ですよ、瀬見さん」

向かった先は音楽室。
名前が白布を待つ間、この場所に居るということを瀬見が知ったのは、ほんの偶然。
扉が完全に閉まっていなかった音楽室から、ジャズめいた泳げ鯛焼きくんが聞こえて、中を覗いたからだった。

「今日、友達は?」
「まほろちゃんはちょっと先生にお呼び出しされたので」
「ふぅん」

尋ねたものの、特に興味もなかった瀬見が気のない返事をする。
先ほどまで茂里が座っていた椅子に腰掛け、机に上半身を伏せたところで、名前はピアノを鳴らした。

「ソ?」
「当たりです」
「よし」
「じゃあ、これは?」
「……ド?」
「残念、ドのシャープです」
「せっこ!それ白いとこじゃねーじゃん!」
「すみません」

顔を見合わせて笑う。
瀬見は、白布の幼なじみにしてはお茶目で、天童の従兄妹にしては落ち着いたこの後輩を、結構気に入っていた。

「…賢二郎のこと、どう思いますか?」

そう問い掛けながら名前が弾き始めたのは、J.S.バッハのカンタータ第147番。
「主よ人の望みの喜びよ」。
生憎と瀬見はそのタイトルは知らなかったが、メロディラインくらいは聞き覚えがあった。

「白布のことなら苗字の方がよく知ってるんじゃないか?」
「瀬見さんから見ての賢二郎の様子が知りたいんです」

ピアノを弾きながら話をするなんて器用だなと的外れなところに感心しつつ、瀬見は白布のことを思い浮かべる。

「…白布ってさ、実は人付合い苦手だったりするか?」
「どうしてですか?」
「いや、なんつーか…人と距離を置くのに慣れ過ぎてる、というか」

刹那、今まで美しい旋律を奏でていた指先は動きを止めた。
窓越しにくぐもった、サッカー部の声が聞こえる。

「…人との繋がりを軽く見てる訳じゃないんです」
「分かってる。別にダメだなんて言うつもりもない。…でも、苗字もそういう白布を知ってるんだな?」

含まれた確認の意を理解し、名前は動じることなくただ頷いた。
その伏せられた目から、今にも雫が溢れ落ちてきそうなほど潤んでいた。

「瀬見さんは周りがよく見える方なんですね」
「ま、これでもセッターだからな」
「さすがです。…賢二郎は身近な人であればあるほど、ある程度の距離を置かないと上手くバランスが取れなくなるんです」

何故と問いかける前に、名前はポツリと呟くように話し始めた。
それは唐突な例え話だった。
自分のとても大切な子が大事にしていたウサギを見せてもらい、あまりに夢中になった結果、檻に鍵をかけるのを忘れてしまった。
次の日の朝、そのウサギは野犬に襲われたのか、真っ赤な血を流して死んでいた。
近隣には滅多に野良犬なんて出ないのに、その日は「偶然」近くに居て、その夜「たまたま」鍵のかかっていない檻からウサギが外に飛び出してしまった。

「どう思いますか?」
「…可哀想な話だな」
「…そうですね。大切な子は、可哀想です。では自分は?鍵をかけ忘れてしまった自分は、どうなんでしょう」
「それは…」
「ウサギが死んだのは、自分が悪かったのか、それとも運が悪かったのか。瀬見さんはどちらだと思いますか?」

とうとう瀬見は言葉を失った。
恐らく、初めのうちは自分が悪いのだと罪悪感に苛まれるだろう。
鍵をかけずにウサギを檻に戻したから悲しませてしまった、と。
けれど、きっと誰もお前の所為だとは言わない。
その大切な子も、君が悪いんじゃないと慰めてくれるだろう。
けれど、例えそう思えるようになったとしても鍵をかけなかったのは純然たる事実だ。
ウサギが死んだのはその日「偶然」近くに居た野良犬の所為なのか。
それとも「たまたま」鍵をかけ忘れた自分の所為なのか。
どれほど考えても、万人に認められるような答えは出てこないだろう。

「──なぁ。それ、白布と何か関係が…」

言い切る前にガラリと大きな音がした。
そこに立っていたのは、呼び出されていた茂里だった。

「また来たんですか、瀬見さん。そんなんだから白布にポジション取られるんですよ」
「まほろちゃん…」
「お前…、人のデリケートな部分をズケズケと……」
「そこ、私の指定席なんですけど」
「はいはい、悪かったな!」

勢いよく立ち上がり、席を明け渡すと、もう用は無いと茂里は瀬見を無視した。
瀬見に何かされなかったかと、目の前で尋ねるところからして、茂里の中での扱いは知れていた。
名前に話の続きを促すのも憚られ、一言二言交わして練習へと戻った。
その夜、無意識に鼻歌を歌っていたらしく、隣に腰掛けた牛島にまじまじと見つめられた。

「『主よ人の望みの喜びよ』、だな」
「そんな名前の曲なのか、これ」
「知っていて歌っていたわけではないのか」
「ん、ちょっとな」

言葉を濁すと、牛島は追及することなく流した。
名前の話が一体どういう意味だったのかも、曲本来の意味も、瀬見には分からない。
だが、少なくともあのような顔で弾く曲ではないだろうにと嘆息をもらさずにはいられなかった。


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