及川が名前を初めて見たのは、横断歩道の白い線の向こう側でのことだった。
シューズのヒモが切れそうなことを指摘され、備品のお使いも兼ねて店に行くことを決めたオフの日。
空は薄暗く、不安定に揺れる雲を纏っていた。
さっさと行って帰ってこようと自転車を漕ぎ出す。
しかし、その及川の見通しは甘く、家から角1つ曲がったところで雨が降り出した。
そこで一度、戻れば良かったのに。
身体に当たる雨粒は、みるみるうちに大きくなっていく。
もう少しスピード上げようと足に力を入れたが、その日の及川はとことん運に見放され、近所で1位2位を争う長い信号に捕まってしまった。
着ていた服の色も変わり、この様相で店に入る気力も無くなった。
今更ながら帰ろうと決意した及川の視界にちらついたのは、白鳥沢の制服だった。
誰も彼もが牛島に見えるとは大袈裟だが、ついつい視線を向けてしまうのは最早、どうしようもないことだった。
そこには何の変哲もない男女2人組が居た。
同じ傘を差し、寄り添うように歩いている──白布と名前。
ふいに名前の顔が及川へと向けられた。
近くに雨を防げる屋根など無く、自転車に跨がったまま雨に濡れていることなどすっかり忘れ、及川は横断歩道の向こう側に居る見知らぬ彼女にひらひらと手を振った。
名前が会釈したことで、白布の視線も動く。
白布はすぐに、それが青城バレー部セッターの及川であると分かり、同じように会釈した。
内心、なんて迂闊なことをしているのだと罵りながらのものとは知りもせず、及川はその様を好意的に受け取った。
雨霞に遠ざかる2人。
及川には、自分の肩や鞄が濡れるのを厭うことなく、傘のほとんどを名前に傾けて歩く白布の背中がひどく印象的だった。
「それは止めといた方がいいよ」
ほんの世間話程度に、3年の一部で名前をマネージャーにという提案が出た。
毎年のことながら時期的に人手が足りず、幼なじみも従兄妹もバレー部ならと名前に白羽の矢が立てられたが、天童が取り付く島もなく返した。
水を打ったような静寂に、天童自身が困ったように笑う。
「名前ってば最近、及川クンと知り合いになっちゃったみたいだし」
ラインまで交換しちゃってさ、とおちゃらけた物言いに戸惑いが広がるばかり。
方々から視線を向けられ、天童は観念したように吐き出した。
「…賢二郎が居ないから言うけどさぁ、あの2人はそこいらの幼なじみとは違うんだよ。特に賢二郎は、名前が絡んだら何するか俺にだって分かんねぇ」
「は?何?全然、意味分かんねぇんだけど」
「だーかーらー、今年も順当に全国行きたいなら名前をマネージャーにするべきじゃないし、もしそうするなら少なくとも青城と当たったら賢二郎じゃなくて英太くんにセッターを任せないと、って話」
「益々意味分かんねぇ」
「苗字が及川と知り合いって話、関係あんの?」
「え、もしかして苗字さんと及川が知り合いだから試合で手抜くかもってこと?」
「いや、いくらなんでもねーだろ」
「…さぁ?どうだろうね」
天童が言葉少なげに部室から出て行ったのが決定打となり、その後、名前にマネになってくれないかと提案する者は誰1人居なかった。
しかし、どうしてもその意味を求めたくなった須磨が、こっそりと天童の言葉を引用する形で疑問を呈した。
そこで須磨は、あまりに一途な2人は、お互いを思いやりながら2手、3手先を読んで行動しているのだと知った。
「賢二郎が試合で手を抜くなんてことは、絶対に無いですよ。賢二郎は私が悲しむのを何よりも嫌っているから。相手チームに私の知り合いが居て、手を抜いて…それこそ負けでもしたら『わざと私の為に負けたのかな』って私は思ってしまいます。けれど、一瞬でもそう思わせたら、それは賢二郎の意に反します。だから、全力で向かっていくと思いますよ」
「…そういえば、苗字さんが試合を見に来たことってないよな」
「はい。私が見に行くと賢二郎が純粋にバレーを楽しめなくなってしまうので。あ、もし良かったら今度、試合のビデオ見せてください」
そんな誤魔化すような笑みと言葉に、息苦しくなった。
何がここまで互いを縛らせているのだろう。
その疑問は胸奥深くに沈め、口にはしなかった。
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