「…英太くん、今何て?」
「だから、若利が苗字に白布が合宿参加しないって言ってることを教えたんだと」
「……若利くんめ、余計なことを」

舌打ちと同時に鳴ったケータイ。
それを飛びつくように受け、天童は窓から木を伝って外へと出た。
門限なんてクソ食らえ。
今の天童には、電話の向こうですすり泣く従兄妹の元に行くのが何よりも重要だった。
白布は、決してその懐に名前を入れようとはしなかった。
抱えている罪悪感がそうさせていたのだろう。
名前は気付かない振りをしながら、白布の庇護の下におとなしく居座ってあげていた。
それが正しいかどうかを天童に言うことはできない。
けれども、その危うげな距離感をいつまでも続けることは不可能だろうとは思っていた。
この均衡が崩れるキッカケは本当に些細なことでいいのだと、分かっていた。
ただそれが、互いを闇の底へ沈ませるようなものでなければいいと、そう願っていたのに。

「賢二郎とは、…もう会わないことにしたの」

目を赤くした名前を見て、思わず頭を抱え込む。
かけてやる言葉1つ見つからない幼さ故に、黙って2人見守ることを決めた天童に一体何ができたというのか。
今更後悔してみたところで、それはただ何もしてやれなかった自分を慰めているだけに過ぎない。
以前、名前が話してくれたことがある。
名前の母親が亡くなったのは自分の所為だと思い込み、責め続ける白布がひどく憔悴していて見ていられなかったこと。
白布がこれ以上、苦しまないように自分は泣いてはいけないのだと思ったこと。
そのすぐ後から、白布が名前を壊れ物を扱うように接するようになったこと。
それらすべてを引っ括めて、白布への想いが、いつの間にか幼なじみの好きから特別な人への好きに変わっていたこと。

「その幼なじみくんに伝えたらいいのに」
「困らせるだけだよ。それに、もし受け止めてくれたとしても、賢二郎自身の気持ちじゃない。…罪滅ぼしの為に傍にいてくれるのだとしたら、こんなに苦しいことはないから」

思えばもう、あの時から2人は身動きが取れなくなっていたのかもしれない。

「…だからって、わざわざ引導渡してやることなかったんじゃないの?」

俯いたまま座り、微かに鳴咽を漏らす名前に天童は囁くように声をかけた。

「合宿の初日に主将がいなくてもチームに支障はないよ。監督である鍛治くんも了承したんだから、部外者の名前がとやかく言う必要はなかったでしょ」
「そうだけど、でも…」
「仮に問題があったとしても、名前が賢二郎に合宿行けって言えば済む話じゃないの?何もそんな突き放すような…、賢二郎と縁を切るようなことしなくて良かったのに」
「縁を切るなんて、そんなこと言ってないよ。ただ、もう会わないって言っただけで…」
「立ち上がる術を知らない賢二郎にとっては、どっちも同じような意味だと思うけどね」

そろそろ前を向いて歩き始めていいのだと、頭ではとうの昔に分かっているであろう白布には、名前という道標があってこその前進であり、それを失ってしまった今では後退することもできずに、ただ立ち尽くすという手段しか残っていない。
それが分からない名前ではない。
それでもなお、名前が決断したということが、限界だったということを示しているように思えた。

「…なんで急にそんなこと言ったの」
「……急に、じゃないよ」

名前は下に向けていた視線を上げた。
その瞳は未だ涙で滲み、揺れている。

「ずっと、ずっと考えてたの。私が何とかしなくちゃいけないんだって。だって賢二郎はずっと、私か自分を選ばなきゃいけなくなる度に私を優先してきた」
「でも、それを今まで許してきたのは名前でしょ?」
「……そう、だね。でも、…今回のことは、今までとは全然違うの。バレーより私を取るなんて、そんなの間違ってる」
「…それは客観的に見ての判断であって、他でもない賢二郎がした選択に俺は勿論、名前も口を出していいものじゃない」
「分かってるよ。でも、これだけは駄目。絶対、駄目なの」

ぎゅっと手を握り締めて、名前が唇を噛む。
その頬を再び雫が伝った。

「…私もバレーも対等だったから、だから今までは大丈夫だったのに」

その意味を問う前に、名前が再び口を開いた。

「お母さんが死んでしばらく経った頃に、賢二郎がバレーをやめるって言い出したことがあるの。多分、事故の引き金になったそれを続ける気力が無かったんだと思う。自分は何かを楽しんだり、笑ったりしちゃいけないんだって、思い込んでるみたいだった。でもそれを知ったお父さんが、事故の日以来ずっと部屋に閉じこもってた賢二郎に後悔しない生き方をしてくれって言ったの。お母さん、賢二郎がバレーしてるのを見るの好きだったから…、続ける理由がないって言うなら天国で見ているお母さんの為にやってほしいって」

視線を上げ、遠くを見つめるように目を細めた。
その瞳の奥に映っているのは、目の前に居る天童ではなく、白布なのだろう。

「賢二郎にとって私もバレーも全部、罪滅ぼしの為に大切にしなければならないものだった。だから、そこに優劣なんてないと、そう思ってたのに…」

名前は堪えきれなくなったのか、最後は声を喉に詰まらせて両手で顔を覆った。
その様子が異様に彼女を頼りなくみせた。
名前は、白布がバレーを続けているのは、名前の父親の言葉によるものだと思っているのだろう。
けれど、ただの義務感でレギュラーを取れるほど、白鳥沢は甘くないということを天童自身がよく知っている。
名前に対しても、大切にする理由に罪滅ぼしの為というのが無いとは言わないが、あの瞳には別の感情も含んでいるのは誰の目にも明らかだった。
高校からの付き合いである天童が、白布が名前に特別な感情を抱いていることに気づいたのに、本人が気づかないはずがない。
──ああ、そうか。
天童は理解した。
名前も白布も、当人たちはそれすらも承知しているのだと。
相手の気持ちを理解しすぎるが故に、2人は手を伸ばせずにいるのだと。
名前の気持ちをわかっていてなお、受け入れる気のない白布に対し、たとえ名前が一歩踏み出したところで困らせるだけだと思ったのだろう。
確かに、これ以上白布を縛り付けたくないと考えている名前にしてみれば当然かもしれない。
とはいえ、一度走り出してしまった気持ちはそうそう止まるものではない。
だからこそ名前も、ずっと苦しんできたのではないか。
結局は名前も白布も、今の今まで同じ想いを抱え込んでいたのだ。

「ねぇ、覚くん。私のやったことは間違いだったのかな」
「…どうして?」
「だって、…私だけ逃げ出したみたいだから」
「名前は別に逃げたわけじゃないよ。名前だって、あの関係がいつまでも続けられるとは思ってなかったでしょ?」
「…うん」
「二度と修復できなくなる前に、…こうなって良かったんだよ」

名前はそれに頷くことなく、天童にぎゅうぎゅうとしがみついた。
床に放り投げていた天童のケータイが短く震える。
ディスプレイには、すみませんとたった1行のメッセージが表示されていた。


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