烏野では離任式に参列しないと新年度のクラスが分からないようになっている。
とはいえ、要領のいい者は参列していた者から聞き出すので、このシステムは意味を成していない。
今日、木下のケータイはやたらと鳴った。
頼りにされていると言えば聞こえはいいが、上手く利用されているというだけの話だった。
よく知らない先生たちに当たり障りのない別れを告げ、掲示板を見に行く。
そこには見慣れた背があった。

「縁下、何してんの」
「ん?いや、クラス分けさ、連絡来てから探してやるの怠いから各クラスの掲示板の写真を送ろうかと」

そもそも探してやる義理もないし、と写真を撮って回る縁下について行きながら自分にも送ってくれと頼む。
そのときの縁下の表情といったら、何とも悟りきったものだった。

「西谷は停学中だから仕方ないとしても田中の寝坊はないな」
「ないね。まぁ、今日は部活もないし、気が抜けたんだろうけど」
「昼は?松尾たちと食べようって話になってるけど、来る?」
「悪い、昼は……あ、」

縁下がぴたりと足を止めたのは2組の掲示板。
木下のクラスだった。

「何?」
「……木下、2組だったのか。ならちょうどいいや」
「いや、だから何が?」
「松尾たちのは断ってこっち付き合ってくれ」
「それは別にいいけど……え、ちょ、1組撮らなくていいのかよ!?」

ケータイを仕舞い、何処かを目指してさっさと足を進める縁下を慌てて追いかける。
なお、1組に組み分けられていた田中は、夜になってから俺の名前がないと大騒ぎし、冴子に怒鳴られることになるのだが、2人にはまったくもって関係のない話である。
辿り着いたのは第一体育館だった。
複数のバスケ部男子の中に女子が1人混じっている。
木下が誰だろうと疑問に思っていると、縁下があっさりとその女子の名前を呼んだ。

「灰崎」
「縁下遅い」
「縁下早い!」
「もっとゆっくり来いよ!」
「あああ、灰崎っ、マジでタンマ!あと1本!」
「フリースロー勝負を1本!仲本と!」
「仲本とじゃ勝負つくまでに10本は打たなきゃいけないから嫌」

追い縋る相手を素っ気なく払い除け、体育館を出る。
その表情は口々に文句を言われた縁下よりも更にむくれたものだった。
意外と表情に出るタイプなんだろうか。
木下は名前と関わったことがない。
挨拶どころか、そもそも視線が合ったことがない。
廊下で擦れ違ったかさえ怪しい。
しかし、しょっちゅうバスケ部に絡まれているのは知っていたし、何よりも色素の薄い灰色の頭は高校デビューにしても奇抜で、視界にあれば自然と目で追っていた。
一度として根本の色が変わったことのない彼女の髪は、入学当初よりもずいぶんと伸びた。
シンプルな黒いゴムで結い上げられ、ひょこひょこと勝手気ままに揺れる尻尾が、中途半端に首筋をくすぐるらしい。
さっと解かれた一瞬、ほんの僅かに柑橘系の匂いがした。
そこで木下は名前との距離の近さに驚いて仰け反った。
物珍しさもあり、じっと見つめていた自分に気づき、居たたまれなくなった木下は、昼飯を買いに行ってくると告げて一時、その場を去った。
離任式だけの日に学食や購買部が開いているはずもなく、仕方なしに坂ノ下まで足を伸ばす。
空きの目立つ棚から多めに紅しょうがの乗った焼きそばパンと飲み物、それから麩菓子を買った。
ズキズキと良心が痛んだ結果の名前への詫びの品だが、脈絡なく初対面の人間から麩菓子を貰うことになる名前の気持ちをもう少し察するべきだった。
ざっくりとした性格の名前の手によって、てんでバラバラに3分割され、麩菓子は2人にも配られることになる。
そんなこととは露知らず、ガサガサと袋を鳴らしながら学校へと戻った木下は今、待ち合わせ場所になっていた多目的教室の前で立ち往生していた。

「──付き合ってほしい」

縁下の言葉を理解しきる前に、反射的にしゃがみ込んだ。
ビニールの立てる耳障りな音が廊下に響いたが、軽音楽部のがなり立てるような爆音に食われた。
告白。
告白だ。
いや待て、もしかしたら付き添いの意味かもしれない。
早とちりは駄目だ。
心拍数の上がった心臓を落ち着けようと深呼吸を繰り返す。
その最中、名前がゆったりとした声で何処に、と返した。 
ほうら、やっぱり。
隠れることなんてなかったじゃないか、と木下が立ち上がるのを見計らったかのように縁下は答えた。

「オレンジコート」

扉に手をかけたまま、思考停止に陥った。
名前は縁下と違って優しくない。
ぐるりと思考が動きだすのを待ってはくれない。

「それは全国大会出場ということ?」
「出来ることなら優勝したいと思ってる」
「出来ることなら、ねぇ…」

はんっ、と鼻でせせら笑う名前にドキリとした。
吸った空気感も飲み込んだ唾も冷ややかに感じて、内蔵が凍っていくような思いがした。
さっきまでとは違う鼓動に胸が痛い。

「無理ね」

ぐっと締め上げるようなものではない。
ぐさりと刺されるようなものだった。

「バレーのことはよく分からない。うちのバレー部のこともよく知らない。試合も、この間の伊達工とのを見ただけ。それでも分かる。あのレベルでは全国大会出場はおろか優勝なんて夢のまた夢。出来ることなら、なんて言葉で語るのも烏滸がましい」
「…俺の情けない言い方が悪かったかもしれない。でも、」
「気概の問題じゃない。実力の問題よ。ボールを繋いだ回数、飛び上がった回数が点を取るチャンスを得た回数に直結するバレーで、土壇場に誰よりも早く諦めたエースを擁しているチームが勝ち進んでいけるとでも?」
「それは…」
「確かに、バスケと違ってスコアラーとしてのスーパープレーヤーは必要ない。何故ならサーブを除いて1人で点を取ることが出来ないから。1人で取れる点が1点でしかないから。でも、エースとレシーバーについては話が別。相手を黙らせるため、味方を鼓舞するため、それぞれの意味合いは違っても『他とは違う』プレーヤーが要る。その点、西谷の存在はアドバンテージだけれど、試合には勝てない。そもそも彼は停学になったんじゃなかった?」
「停学は1週間、部活禁止が1ヶ月だよ」
「なら新チームが始動しても、彼がその連携に馴染むのには先になる。強豪校はその間に4回は試合を組める。この時点で練習の質が違う。ならばと安易に量を増やしたところで、逃げ出す奴が出てくる──縁下たちが、よく分かっているでしょう」

耳の痛い話だった。
けれど、それ以上に許せない物言いだった。

「何だよそれ!」

それまで躊躇っていたのが嘘のように勢いよく引き戸を開ける。
自分で立てた音なのにバンッと激しい音に肩が跳ねたが、直ぐさま名前を睨む。
凍っていた内蔵がどろりと溶けて熱を持っている。
その熱は毛細血管にも巡り、許容しきれなかった頭がチカチカと白む。
混じりけのない、怒りの感情だった。

「逃げ出したことのある俺たちのことはいいよ!いいけど!──先輩たちの努力や夢まで否定するなよ!」

木下は自分がこんなにも大声が出せたことに驚いた。
ところどころ裏返っていたから、一笑に付されて終わってしまうだろうかと不安になるも、名前は至って真剣な顔つきで耳を傾けていた。

「努力は才能には叶わない」

とはいえ、名前は一貫した態度を変えず、鋭い言葉の矛先を縁下から木下へと移しただけだった。
見れば完璧にこなせてしまう名前に、2年間、競技は違えど圧倒的な才能の持ち主たちを見てきた名前に、努力を語ること自体、間違いだ。
一切の努力を排除していたとは言わない。
けれど、当人たちでさえ己が才能に努力を押し潰されてきた。
打ち破れるのは凡人の努力ではない。
己か、土俵を同じくした他者かでしかない。
痛感させられたそれを、名前は曲げる気はなかった。

「…灰崎先輩は僕を認めてくれていましたが、その実、ずっと僕を否定していた。それは、青峰くんたちがこうなることを分かっていたからですか?」

名前の耳奥で後輩──黒子の震える声が響く。
わざわざ電話までして、八つ当たりの言葉を向けた黒子を恩知らずと罵ることは容易い。 
第三体育館から引っ張り上げたのは名前だ。
持て余している特性の使い道を提示し、青峰や赤司を誘導して会わせてやったのに。
そう謗ることなく、甘んじて聞いていたのは、彼らが3年になった時には間違いなくチームとして機能しなくなると読んでいたからだ。
名前や虹村の在学中、まだ素直だったキセキたちに僅かな希望を持っていた。
しかし、それも白金監督が退任を余儀なくされた時点で消え失せた。
彼らには「上」の存在が必要だった。
特に赤司には、お前はゲームメイクに力を注げばいい、部に関しては何かあれば相談に乗ると言ってくれる存在が必要だった。
どんなに優れていても、中学生だということを帝光の指導者たちは軒並み忘れ去っていた。
纏めることを期待され、それをこなせるという自負と、軽んじられるわけにはいかないという危機感とで同輩である緑間に頼れない状況を作ってしまった。
察するにあの空間で能天気でいられたのは色惚けた黄瀬と、菓子にしか興味のない紫原くらいだろう。

「黒子、またバスケをしたくなったらでいい。進学先の候補に誠凛を入れておいて」

チームでしか輝けない黒子が行き詰まるのは分かっていた。
場所を変えたとしても、考え方を変えない限り、青峰と対峙すれば同様に行き詰まる。
第三体育館での出来事を繰り返すかのように道を示したものの、名前はそれ以上をしてやる気はなかった。
同じ学校ではないから。
弟と対立するかもしれないから。
幾つかの理由はあったが、何よりも個人技で片の付くバスケと関わりたくないというのが大きい。
チームスポーツとは一体、何ぞや。
名前にはもはや、それが分からなくなっていた。

「努力で才能を制することには興味ないのか?」

灰崎はそれを促すことができるだろ、という縁下の声に内に向いていた意識が外へと向かう。

「毎年、新入部員が来たらミニゲームをするんだ」
「…それで?」
「もしかしたらゼロかもしれないけど、その時はその時で。とにかく一度、見に来てほしい。バスケ部に付き合ったんだ。そのくらいはいいだろ?」
「……分かった。一度だけね」
「ありがとう。じゃ、木下。その日になったら灰崎のこと連れてきてくれ」
「え、まさか俺、このために連れてこられたの?」
「そうだけど」

けろりと告げられ、木下の口からは長いため息が溢れた。
あんなにも剣呑な雰囲気だったのに、名前はといえば縁下と共に呑気に弁当を広げている。
ふと馬鹿らしくなり、焼きそばパンに齧り付き、買ったときとは違う意図で名前に麩菓子を差し出す。
そんな木下が何故、こんなにも縁下が名前を部活へ誘うのか、疑問に思ったのは帰宅して湯に浸かってからのことだった。


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