「『フヨ』ちゃん、ちょっとでいいからさ、ね?」

教室の片方の出入り口を塞いだ先輩に話しかけられている名前。
クラスのバスケ部は小さくもハッキリと先輩を応援する声をあげている。
木下は思った。
またかよ、と。
無事に進級し、名前と同じクラスになってからこのやり取りは何度も繰り返されている。
それこそ、あまり親しくなかった木下を始め、多くのクラスメートが「灰崎」の下の名前は「フヨ」だと誤解するくらいには。

「先輩、心底うっとうしいです」
「え」
「さようなら」

直接的な罵倒をしたのは今日が初めてだった。
呆然と立っている先輩の脇をすり抜けて教室を出て行った名前を追う。
木下が下駄箱に向かっているのに気づき、呼び止めて体育館へと促すと、ぼんやりとした声で忘れてたと呟いた。

「調子悪いのか?」
「や、そういうわけじゃないんだけど」
「けど?」
「…美容院行きたい」
「は?」

意味の分からない返しに戸惑うも、名前自身がそれ以上の追求を拒んだ。
流れる足運びで体育館へと向かい、臆面もなく中へと入った名前を見て田中が叫ぶ。

「は…、灰崎!さん……!」

体育館中に響く大声に名前の眉が寄る。
縁下の彼女として認識している上級生が騒めく中、取り残された1年は名前を見て首を傾げていた。

「誰?」
「田中。隣のクラス」
「知らない」
「だろうね」
「あー…えっと、灰崎さん?今日はどうしたの?」
「縁下に見に来てほしいと言われたので来ました。見学させてください」
「それは別に構わないけど、今日は新入部員がミニゲームをやる予定で…」
「承知してます。木下、上借して」
「ん?ああ、おう」

菅原をいなし、木下のジャージを腰に巻いた名前は梯子を上り、コート中央の延長線上に陣取った。
試合前の戯れのようなボール回しをじっと見つめる名前とは、当然のことながら誰も目が合わなかった。

「…灰崎、機嫌悪いな」

ホームルームが長引いて、少し遅く体育館に来た縁下は名前を見上げてポツリと溢した。
声をかけるかかけまいか悩んだのはほんの一瞬で、結局は放置を決め込んだ。
今更へそを曲げられ、帰ってしまわれては困る。
田中の雄叫びに野次を飛ばしながら、ちらちらと様子を窺ってくる菅原へと口を開く。

「試合観ながらでいいんで聞いてもらいたいんですけど」
「うん」
「俺、灰崎をマネージャーにしたいんです」
「……ウン」

何だか妙なトーンの相槌だな、と菅原を見ると試合でも話している縁下でもない宙に視線を泳がせていた。
ふと見ると、審判をしている成田や胡座をかいていた木下まで妙な顔つきで視線を泳がせている。

「い、いいんじゃないかな。うん、えっと一部が大騒ぎしそうだけど、彼女がマネージャーとか、そういうの憧れるもんな」
「え?」
「ぶっちゃけ羨ましいし、精神衛生上あんまり良くないけど、マネージャー増えたら清水も楽になると思うし、……な!」
「え!あ、はい…!」
「別れたとき拗れそう…」
「バカ!余計なこと言うなよ!」
「……ああ、なるほど。誤解ですよ、俺、別に灰崎と付き合ってないです」
「え、そうなの?なら全然、問題ないじゃないか。彼女、経験者?」
「強豪チームのマネージャーだったみたいです。バスケ部ですけど」
「へぇー」
「器用貧乏型の天才なんです、アイツ」
「えっと、それってどういう…」

──バチッ。
日向が月島のブロックに捕まり、木下がおもむろに立ち上がる。
02 - 02 に捲られたスコアボードを横目に、縁下はバスケ部の練習試合の話をした。
「フヨ」と呼ばれている名前のマネジメント力。
その片鱗を見せつけられたあの日から1年、クラスメートとして接する中で、何度も目の当たりにした天才と呼ばれるべき気質は、当然、持て囃され、請われるようになった。
勿論、羨ましさから妬まれ、謗られることもあった。
けれど名前は、そのすべてを冷たい眼差しで受け入れていた。
好悪関係なく向けられる周囲からの熱狂的な感情と、名前自身の感情の温度差はどんどんと広がっていく。
付き合いが悪いわけでも、友人がいないわけでもない。
ただ、相手の求める名前像を表層化するような、そんな衝撃吸収パッドのような付き合い方をしているために、名前が気を許せる相手は校内にはいないように見えた。

「信じられないかもしれませんが、灰崎は一度見たら何でも再現できるんです」

数学の公式とそれを活用する問題文を見たなら、どのような文脈の中からも、それを使って答えを導き出すことができる。
野球の試合でフォームと握りを見たなら、己の体の可動域とイメージとの差を埋めるために一度二度投げたら、どんな投手の球も投げられるようになる。
あるがままを描く模写は大得意であるし、音域の幅の内であれば声真似から歌唱まで何でもこなせる。

「できることが増えるたびに詰まらなくなっていく。そう言っているのを聞いたことがあります」
「それはまた、贅沢な悩みだな…」
「ええ、俺もそう思いました。だから喧嘩になったんです。1月半くらい、灰崎とは口も利きませんでした。まぁ、夏休みを挟んでたからなんですけど」

縁下がそれを聞いたのは、烏養が監督に復帰し、3回ほど部活をサボってしまったときのことだった。
誰に咎められるわけでもないその所業に堪らなくなり、真夏の炎天下、太陽が中天にかかる頃に外に出た。
ものの数分で汗が滲み、火照るのを感じた縁下は木陰で涼やかに本を読む名前を見つけた。
時折、膝の上に置いた扇子を拾い、扇ぐその姿のなんと雅なことか。
平成の世の女子がする仕草ではない。
うっそりと見つめている内に視線を感じた名前に手招かれ、横に並んで腰掛けたが、見ていた時と比べるとその木陰は然程、涼しい場所ではなかった。

「──逃げることができて、いいわね」

それは、いつもの名前の表現能力の乏しさが禍した結果だったのだろう。
今なら、隠れていた言葉を察することができる。
曰く、逃げたくなるくらい好きなことがあっていいね、だった。
逃げたくなったのは、理想と現実の差に喘いだから。
理想と現実の差に喘いだのは、バレーがたまらなく好きだから。
けれど名前にはそれがない。
好きになる前にできてしまう。
熟せてしまう。
逃げ出したいと思うようなことを経験してこなかった。

「灰崎には分からない。お前は、見れば何だってできる。努力とはかけ離れたとこにいるから、だから、俺たちみたいな奴のことなんて…分かるわけがないんだ」

その時の名前の能面のような顔と、失望したと訴える眼差しは、網膜に焦げ付いてしまったのか、瞬いても消えなかった。
名前は努力していた。
数学は計算をしなければ答えを導けない。
同じ公式を使う問題でも、数字が違えば違う問題に様変わりする。
高校の数学に閃きはほぼ必要ない。
必要なのは着実に計算をする能力だ。
では、その能力はどうすれば身につくか──反復練習しか有り得ない。
野球の例も、皆、投げられた球に注目するが、本当はそれを投げるために作られた体に注目すべきなのだ。
ほぼ利き腕だけを酷使する野球は、リトルからプロに至るまで、肘や肩の故障が多い。
それゆえ、優秀な指導者や一流の選手、特に投手はトレーニングを重ね、しなやかな筋肉と柔らかな関節を作ることを推奨する者が多い。
見れば投げられるのが凄いのではなく、そのための筋肉量と柔軟性を兼ね備えた体を作ったことが凄いのだ。
同様に、鉛筆を握る力と描ける線の濃さや太さの感覚は、繰り返さなければ分からないし、声真似や歌唱のリクエストに応えられるほどの音域は、生まれ持ったものだけでは出し切れない。
名前に関するエピソードを拾い上げるたびに、その努力が感じられた。
けれど、それは名前の望むように結実してくれない。

「灰崎は多分、『できないこと』が欲しいんです」
「…マネージャー云々っていうのは灰崎さん自身が望んでるわけじゃないんだな」
「はい。離任式の時に断られて、それでも諦めきれなくて、無理に見学に誘いました」
「どうしてそこまで…」

その理由を縁下自身はよくよく分かっていたが、口に出したくなくて苦笑いで留めた。
菅原に付き合っているのではなく、片思いなのかと再び誤解されようとも、答えたくなかった。

「バスケ部じゃ、『フヨ』の名前が一人歩きしていて灰崎名前が溶け込めない。灰崎自身も、真剣な奴らの中で遊んでしまうくらい、バスケに飽きてしまってる」

100 - 100 のスコアボード。
それを悪魔の所行と罵ってくれる誰かすら居ない。
名前はバスケというスポーツを完全に見限った。

「バレーにはボールに関して制限がある。一度たりとも落としてはいけない。同じ人が二度触れてはいけない。3回までに返球しなくてはいけない。…これらのルールが、多分、灰崎の救いになるはずなんです」
「救い?」
「バレーは協力を前提とされたスポーツです。1人では戦えない。1人では『できない』。女バレに連れて行かなかったのは、アイツのマネジメント力を手放すには惜しかったのもありますが、灰崎が影山と違って感情の機微に聡く、コミュニケーション能力が高いからです。コートの中に入れてしまえば、自分に尽くすようなプレーをさせることができる」
「……なんか、俺の中の灰崎さん像がとんでもないことになってるんだけど」
「とんでもないんです」
「っていうか、お前、どこまで計画して彼女を誘ったんだ?」
「どこまで、って別に……新入生の組み分け表を掲示するのを手伝わされた時に影山の名前を見つけたので、単純に天才2人を会わせたら上手く話が転がらないかな、と」

こうなることまでは予想してませんでしたよ、という言葉は日向の声に飲まれた。

「おれにトス、持って来い!!!」

ふと名前に視線を向ける。
差し込む日の光で、その表情はよく分からない。
けれど、なんとなく、縁下には名前が笑っているように見えた。


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