帰宅してすぐ、家に残る異臭と踵の減ったローファーで誰が来ているか察した京谷はリビングを避けて部屋に上がった。
しかしながら、相手は既に京谷の部屋のベッドを勝手に持ち込んだ狼のぬいぐるみと共に占拠していた。
ぎゅうぎゅうと形が変わるくらいに抱き締めながら寝転がり、枕越しにくぐもる声でおかえりと告げるその図々しさに舌を打つ。
「人んちに今日はどんな劇物持ち込みやがった」
「劇物じゃない。グリーンカレーだよ、じじ様の口に合わなかっただけで、叔母さんたちは美味しいって言ってくれたもの。賢太郎も食べてよ」
「いらね」
「好き嫌いしてるとじじ様みたく偏屈になるよ……っていうか、早くお風呂入ってきて。くさい」
「名前、お前いつにも増してウゼェ」
悪態をつきながらも、洗濯物と着替えを持って風呂場へと向かう。
京谷は名前に口で勝てた例しがない。
手を出そうものなら、名前の兄と弟に袋叩きにされる。
つまりは、名前に逆らえないのだった。
洗濯機に汗臭いシャツを放り込み、長湯の好きではない京谷はものの数分で上がった。
キッチンへと向かい、それぞれ勝手に過ごしていた両親に声をかけられながら鍋の中に指を突っ込む。
味は辛いのに匂いは甘ったるい。
これは食い物じゃねぇ。
本能によるジャッジは早かった。
「なんか叔父さん、怒ってなかった?」
「牛乳飲んだら騒ぎやがった」
「またパックに口つけたんでしょ。謝った?」
「飲みきって捨てた」
「徹底抗戦じゃない」
「あの汁が悪い」
「グリーンカレーだってば」
部屋に戻ると、名前は体を起こしていたが、相も変わらずベッドにいた。
気を使い合う間柄でもないので、乱暴に押し退け、横に並ぶ。
「いつ帰んだよ」
「眠い?」
「邪魔くさい」
「ひどい」
「ウゼェ……あ?ケガしてんのか」
「あー、ちょっとバレーを嗜みまして」
「どんなヘタクソが授業してんだよ。そんなこと今までなかっただろうが」
「や、授業じゃなくて部活…」
「部活だァ?」
乱暴に頭を拭いていた手が止まる。
どすの利いた声であったものの、名前が怯むことはない。
ただ、憂鬱げな様子で今日あったことを話し始めた。
ところが、そのほとんどがどうでもいいことで京谷は相槌すらせず聞き捨てた。
結局のところ、京谷に伝わったのは「弟が髪を染めてショック」「友人にバレー部に誘われてショック」「影の濃い黒子を真似しきれなくてショック」の3つだった。
どれもこれもくだらない上に意味が分からない。
とはいえ、それは喉につかえて出てこなかった。
物理による指導は骨の髄まで染みている。
「とりあえず、美容院には行くなよ」
「なんで?」
「止めろってショーゴから連絡来てんだよ。シカトする気だったけど、間違いなくお前のことだろ」
「…祥吾のバカ」
「寄り掛かんな。重い」
「……賢太郎のケチ」
「もう帰れよ」
呆れた様子で時計を指され、とうとう白旗を降った名前はコンビニに行くだけだと言い張る京谷に送られ、帰宅した。
祥吾といい、賢太郎といい、どうしてその人となりが伝わらないのだろう。
友達いなくて可哀想になぁ。
などと、自分のことをまるっきり棚に上げていた天罰か。
考えるのを放棄していた「友人にバレー部に誘われてショック」について考えなくてはならなくなった。
「青葉城西と練習試合が決まった。新戦力が試合でどう機能するか見に来ないか」
なんと強引で図々しいのかと、送信者の縁下の名前を睨む。
考えさせてと告げたのだから放っといてくれたらいいものを、断る理由を見つけさせまいと言わんばかりに畳みかけてくる。
この様子では、一度だけという話もミニゲームはという注釈がつくに違いない。
練習試合で駄目なら今度は公式試合、合宿、遠征と巻き込んでいく気だ。
虹村にしてやられたことを思い出し、ぞっと寒気が走る。
周りに捻くれ者しかいなかったせいか、名前は真っ向勝負の強引さへの耐久性が著しく低かった。
前例があるにもかかわらず、対処法がまるで思いつかない。
気を紛らわせてくれないだろうかと、先程別れたばかりの京谷に青城との練習試合が決まったから一緒に見に行こうと提案するも、寝言送ってくんじゃねぇ、と一刀両断の憂き目に合っただけだった。
「灰崎さん、今日は部活来ますか?」
縁下に返信することなく迎えた月曜日。
登校すると2年の下駄箱で影山が待ち構えていた。
名前は影山の名前を知らない。
見学に行った時に顔を合わせたが、セッターやトスといったバレー用語の分からない名前にとって、影山は点に絡むパスを出す「影の濃い黒子」という認識でしかない。
よしんば名前を知っていたところで、挨拶すらせずに用件を突きつける人間と会話を続けてやるほど情深くない。
自然に視線をそらし、すたすたと教室へと向かう。
無視されたと気づき、影山が大声で名前を連呼しながらついてきても、足を止めなかった。
自分たちの教室の前を聞き覚えのある声と名前が横切った成田と縁下は、顔を見合わせて木下に合掌した。
「何!なに!?灰崎と……え、影山?」
木下は涼しい顔で席に着く名前と、教室の出入口で歯噛みする影山を見比べ、名前へと近寄った。
おはようと声をかけ、何事かと聞いても勝手についてきたと返されるに終わる。
早々に名前から聞き出すのを諦めた。
「何なんすかあの人……もしかして灰崎さんじゃないんですか?」
「いや、灰崎だけど。アイツに用?」
「用っていうか、この間は上手く話が聞けなかったので色々聞けたらと思って」
「で、歯牙にもかけられなかったんだな」
「滋賀?」
「…影山、もしかしてバ………いや、いい。それよりお前、名乗ったか?」
「はい?」
「あとは挨拶。灰崎を怒らせるような真似してないなら、無視される理由はいつもそれだ」
入学早々、名前を知らない人間と関係を築くのも、挨拶をしない人間と膝をつき合わせるのも、同様に詮無いことだとバスケ部顧問を打ちのめしたのは同学年の間で有名な話だった。
とはいえ、他クラスの木下の耳に入る頃には、名前が私に話しかけたくば今すぐ名乗れと職員室に討ち入ったという、当たらずしも遠からずな内容へと変貌していた。
閑話休題、影山は名前の地雷を踏み抜いていたわけだが、移動教室などに阻まれ、失った体裁を取り戻せたのは昼休みになってからのことだった。
教室から出てきた名前の前に仁王立ちし、こんにちはと声をかける。
そうして始まった名前、学年とクラス、出身中学、バレー歴、ポジション、身長体重、食べ物の好き嫌い等々の羅列に人集りができる。
「お願いします」
名前をじっと見つめ、手を差し出したのを契機にざわめきが消える。
生憎と「宜しく」の一言が抜けていた。
それがどういう事態を招くか、影山は理解していなかった。
名前は理解していた。
しかし、影山の肩越しに縁下の姿を認めた途端、憂鬱な週末を思い出し、渾身の嫌がらせに出ることにした。
「私を退屈させないでね」
固唾をのんで見守っていた聴衆は盛大に勘違いした。
──灰崎が1年の告白を受けた。
──縁下と付き合ってたんじゃないのか。
──バレー部内で名前を巡って争っているのか。
退屈な日常に突如、出てきたスキャンダラスな話題に騒ぎが大きくなる。
そんな昼休みの喧騒にしては様子のおかしい2年の階に、教員が様子を見に来るのは当然の流れだが、運の悪いことに今回は教頭だった。
揉みくちゃにされ、2人の横に押し込まれた縁下は、何てことに巻き込んでくれたのだと目頭を揉む。
「これは何の騒ぎだね?どうして1年が2年の階にいる?」
「バ、バレー部で、用があって…!」
「ああ、バレー部。知っているよ。君の顔にはよぉく覚えがあるからね」
「ぶふ…っ、ごほんっ」
「バッ…影山!」
教頭が神経質そうな手つきで髪を撫でつける。
即座に影山の脳裏に吹っ飛ばしたカツラが澤村に乗った映像が過ぎった。
咳払いで誤魔化したつもりだろうが、明らかに吹き出していた。
縁下が諫めようにも、既に教頭の眉はつり上がっている。
「何がおかしいのかね?」
さすがの影山も頭です、と言うほど愚かではない。
何でもありませんと目を泳がせて無難にやり過ごそうとしたが、教頭の追及は止まらない。
大体、バレー部は云々という辺りで縁下の視界の端から成田たちの姿が消えた。
武田を呼びに行ったのだろう。
それまでどう凌ぐか。
そこにばかり意識が向き、名前を放置していたのは失策だった。
「そうやって、その場その場を適当に誤魔化せばいいと思っているんだろう。私は騙されないよ。さぁ、何がおかしいのか言ってみたまえ」
「先生、私は退席しても良いですか」
「何?」
「この距離で聞こえませんか。滑舌が悪くて申し訳ないです──退席しても良いですか?お腹が空いてるんです」
柔和な笑みを浮かべ、空腹まで訴える始末。
益々、ややこしくなることが決定づけられ、縁下は貝になりたいと思った。
蓋を閉じて、引きこもりたい。
心底願ってみたものの、叶うわけもなかった。
「論点がズレてきているので、私がいる必要はないと判断しました。『何故、騒いでいるのか』についてならともかく、『バレー部』や、先生の言う『何がおかしいのか』は私にはまったくもって関係のない話です。そもそも、先生は誤魔化すことは悪いことだという風然ですが、世の中、誤魔化されてあげることも必要ではありませんか?」
一方の名前はといえば、饒舌な語り口にジェスチャーまで交え、やりたい放題である。
溜まった鬱憤を晴らすのにこの状況を利用することに決めたらしい。
自分の髪をくるくると指に巻き付け、ちらりと視線を寄越されれば、どんな阿呆にもその意図は伝わる。
禿げをカツラで誤魔化している。
こちらは地毛だと騙されてやっている。
名前の巧みな話術のお陰か、然程厳しく聞こえないが、実のところ自尊心をズタズタに引き裂くような文言だった。
羞恥か怒りか、教頭が顔を赤くしてぶるぶる震えるが、名前の独擅場は続く。
「顔見知りの彼が挨拶に来てくれたのを周りが告白と勘違いして騒ぎになっただけです。バレー部と先生との間にどのような確執があろうと、バレー部だからといって吊し上げるような狭量な小人物でもないでしょう。もういいですか?本当にお腹が空いてるんです。先生も食事はしっかり取った方がいいですよ、特にカルシウムと亜鉛とミネラルは大事です」
何かあれば担任の安原先生経由で呼び出してください。
私の名前が分かれば、ですけど。
言いたい放題、好き放題。
名前は混沌とした場を作り出した挙げ句、捨て置くという暴挙に出た。
踵を返す名前と入れ替わるように武田が成田たちを引き連れてやって来たが、教頭だけではなく、影山と縁下も遠ざかる背から目が離せなかった。
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