夢じゃない


出仕が始まってからしばらく経ったある日、夏口での戦を終えて戻ってきた軍を迎え、宴が開かれた。
新参の文官である私は当然ながら、孫権殿や重鎮が揃う席からは離れた場所に座っていた。
宴となると酒の悪癖が出る孫権殿のそばにいなくても良いので都合が良い、と思うこともなくはない。
酒に強い方ではないので、食事を中心に少しずつ酒を飲む。
近い席に座る他の文官とも積極的に話しかけ、打ち解ける努力は怠らなかった。

喋り通しても、食事を取りながらでも、酒に弱いものは弱い。
動悸が早い気がして、夜風に当たる為に廊下へ出た。何ならこのまま部屋に下がってしまうのも手かと思う。
大きな窓からのぞく月は煌々と真っ白に輝いていた。今晩も天気が良い。星が月の明かりに姿を消しそうだ。
窓枠に寄りかかり、大きく深呼吸をしていると、控えめに声が掛けられた。

「恐れ入ります。お水が必要でしょうか」

宴の間中、忙しなく働く下女たちの一人が水を注いだ杯を持って来てくれていた。
末席に座る文官の動向までしっかり見ていたようで、的確な申し出にすっかり感心した。

「ありがとうございます。いただきます」

杯を受け取ると下女はにっこり笑い、そのまま静かに引き下がろうとする。
月明かりに照らされた顔を見て、急にあの昔の思い出が滝のように溢れ出た。
まさか、この顔つきは。

「あっ、待ってください!」

勢い余って杯の水が少しこぼれる。いきなり腕を掴まれた下女は心底驚いたような表情をした。

「もしかして、いちこ…殿ですか?」

「そうですが…なぜ私の名を…
あれ?」

「私です、陸議です!
今は陸遜と名乗っています」

そこまで言うと、私を思い出の中の陸議と一致出来たのか、恐れを含んだ表情から喜びで満ちたものに変わった。
輝く月が二つの瞳に映り込んでいそうだ。

「ほ、本当に…久しぶり…
でございます!」

子供の頃のように砕けた言葉で話そうとして、思い留まったのが手に取るように分かる。思わず噴き出して笑ってしまった。
自分でも良く下女がいちこだと気付けたものだと思う。
あの頃のやんちゃそうな見た目はすっかり大人びたものに変わり、城で働くに当たって学んだであろう作法もしっかり身についていた。
気配りが良く出来ているのは昔から変わらないところなのだろうと感じる。
彼女に心を救われたと思っていたのは、いつも彼女が私を元気付けようという思いを行動にしてくれていたからだと信じている。

「身長も伸びて大人っぽくなっていらっしゃいますが、陸遜様の優しさと聡明さが垣間見える佇まいはお変わりないですね」

「いちこ殿にそう言われると、何だか気恥ずかしいですね…
こんなところで再会できるなんてとても嬉しいです。元気そうで良かった」

「今は下女ですので、いちことお呼びください。
私も再会できたことは大変光栄です…昔ほど交流を持てることはないかと思いますが、これからもよろしくお願いいたしますね」

本当に嬉しそうな顔はしているものの、一礼してそそくさと他の下女に混ざって仕事に戻って行った。
身分を気にしない間柄を築けたのも子供の頃ならではであって、今も同じような関係を求めるのは理に適っていないことは分かっている。
それでもよそよそしい言動に物足りなさと言おうか、寂しさを感じるのはわがままだろうか。
そうだとしても、彼女がこんなに近くで元気そうにしているだけでも大きな収穫だ。

彼女からもらった水を飲み干し、酒の影響とはまた違った高揚感を冷ます為にしばらく廊下で佇む。
より一層執務に励めそうな環境に感謝し、改めてここで頑張っていこうと決意した。




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