約束事
先日の宴の後、同じ下女仲間からあれこれと熱心な質問を受けた。
見かけない顔だったがあの文官は何者なのか、なぜ親しげに話していたのか。毎日変わらぬ仕事を繰り返す下女たちに、新しく刺激のある話題と捉えられてしまったようだった。
下女を口説き落とすような官職のある者は滅多にいない。
いたとすれば相手の下女がよほどの美人であるか、あるいは己の欲を満たせれば女であれば誰でも良いといったような下世話な男だ。
陸議、もとい陸遜様は佇まいからして下世話な人間には到底思えない。
ならば何か特別なものがあるのではないかと、皆期待と羨望の想いに駆られているようだった。
「ねえいちこ、本当にただの昔の馴染みってだけなの?」
「本当よ。文字の読み書きを教えてくれたのはあのお方だから、先生みたいなものです」
「すごいわあ。清廉で素敵な外見だけでなく、知性があって庶民にも優しいという懐の深さもお持ちになっているのね」
「私も良く見ておくべきだったわあ。そんなに素敵な御仁ならこの目で見てみたい!」
井戸端がいつもより色めき立っている…
今までも印象の良い文官や武官が新しく入ってくる度に盛り上がることは何度かあったが、当事者がいるという点でかつてない熱量だ。
普段より大きなこの雑談が本人に聞こえたら気まずいなあとか、久しぶりに再会したかつての友人をいきなり男女の仲として疑われるのも何だかなあとか、もやもやむずむずした感覚にとらわれてしまう。
「おうい。そこの下女ら、誰かこの竹簡頼めるか」
「はあい、今行きます」
一つ上の階から竹簡を落として渡そうとする文官から声を掛けられた。
走って回廊のそばまで行き、落とされた竹簡を両手で受け取る。急いでいるようで、礼もそこそこに回廊を駆けて行った。
あの方っていつも対応が雑よねえ、と井戸端の方でお小言が聞こえる。
巻いて紐で縛られた竹簡には「陸遜殿宛」との記載があった。
「じゃあ私ちょっと行ってきます」
陸遜様のところに行くだなんて言わない。
また燃料を投下してしまいそうだから。
「失礼いたします。陸遜様はおられますか?」
「どうぞ、お入りください。
…ああ、いちこでしたか」
宴で再会してから、2回目の対峙。陸遜様は何だか嬉しそうだ。
あくまで私は下女だから文官である陸遜様に対しては線引きをしているけど、私だって思い出の人との再会は本当に嬉しい。
「陸遜様宛ての書簡を預かって来ました」
「ありがとうございます」
「…本当に、ご立派になられましたね」
「いえ、私なんてまだまだ…今始まったばかりです」
小さい頃の陸遜様しか知らなかった私にとって、広い居室にいくつかの竹簡を並べて執務をなさる姿は本当にご立派になられたと思わざるを得ない。
私が母と飯店を切り盛りして生活していた間、たくさん勉学に励んで努力なさったのだろう。
陸遜様は照れたように笑っている。
「きっと陸遜様なら、天下安寧へ導く宰相になれることでしょう。心から激励申し上げます。
…では私はこれで失礼します」
行く末をこんな近くで見ていられるならば、友人として、こんなに誇らしいことはない。
そう思って、本当に正直な心の内を申し上げた。
一礼して部屋を出ようと身を翻す。
「ま、待ってください」
また腕を掴まれた。驚いて振り返る。
「あ…すみません。正直なところ、もう少し積もる話をしたいのです。
城内だとはばかられると言うのであれば、物品の調達ということにしてあなたの城下への外出を申請しておきます。
食事でもしながら、私にお付き合いいただけませんか」
さらに驚いて一瞬呼吸が詰まるかと思ってしまった。
まだ文官として名を知られていない陸遜様とはいえ、下女を連れて城下へ食事に…
正直なところとても抵抗はある。しかし思い出話や盧江を出た後の話はしたい。
でも絶対下女の仲間はもちろん、城内の誰かに知られたくはない。
「わ…かりました。あまり人の入りが多くない店でお願いします」
「ありがとうございます、嬉しいです。
では、また後日」
今度こそ一礼して部屋を出た。何だかめまいがするような気がするが、気を持ち直して何食わぬ顔で回廊を進む。
これは一般的に逢瀬と判断されてしまうのでは、と変な汗が出そうだ。
違う、断じて違うと自分に言い聞かせる。あくまで幼少の頃の友人だ。
友人と積もる話をするだけ。これ以上でも以下でもない。
調子が狂いそうになるのを耐えて仕事に戻った。
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