武陵源




神秘的で大いなる自然の力を感じた黄果樹瀑布から離れて早数日。
当たり前だがどこかしこも山々が続く。時折、山の合間を縫うように棚田が現れ集落が見える度に、世界で四人だけ取り残されたような感覚から解放される。
素敵な景色を見るまでの間は、長距離の行軍とそう変わらない。命を落とす可能性がより少ないことと、身軽なごく少数の旅という点以外は。

雨が降った今日は、棚田の上の方に建てられた簡素な小屋を間借りして雨をやり過ごしている。
集落の者は私たちがどこぞの身分のある人間だと感じ取ると、ちゃんとした一室を用意すると申し出てくれた。しかしこちらは仕事ではなく、道楽で練り歩いているだけなので丁重に断った。
今日は屋根があるだけで十分だ。

「法正様は意外と悪い人なんですね」

馬とじゃれたり兵士と駄弁るのも飽きて法正様にそう話しかけると、気だるげに遠くを見つめていた目がぎょっとしたようにこちらを向く。
ああ、そういう表情もするのかと純粋に思った。

「貴方もおかしな人ですね。俺が蜀で何と呼ばれているか知らなかったんですか」

「ああ、いえ。噂を聞いてはいましたけど。
峨嵋山の麓の陣地にいた頃は静かにお過ごしだったので、その時は静かな人なんだなあと思っていたんですよ」

「まあ、地獄に片足を突っ込んでいるような状態でしたから」

「そうですよねえ。でも瀑布を見に行くことを持ちかけられる直前まで、まだまだ元気なさそうに見えたのに急にこんなことになるなんて思わなかったですよ」

やれやれといった含みを持たせてそう言うと、法正様は意味ありげにふっと小さく笑っていた。目的達成とあらば悪事を働こうと何だろうと手段を選ばないことで有名なこのお方は、道楽にも何か意図があってのことなのかもしれない。
万年副将止まりな気がする私のお粗末な頭脳では、あまり察しようとする気にもならないが。

「後悔はさせませんので、ご安心を」

そりゃあ、長い旅路でもその先にあるのが絶景と思えば後悔はしないでしょうよ。
やはり法正様は変わった人だなと思い巡らせていると、厚い雲間から太陽が覗いた。自然と雨が止む。
小屋を貸してくれた集落の者に声を掛け、ぬかるむ道に気をつけながら旅を再開した。



それからまた数日。山と集落を繋いだ先で、あたりの景色が変わってきた。
水脈が豊かといった印象もあるが、遠くに見える山の形が明らかに違う。
霧のせいもあってか、近づかないことにははっきりと形は見えて来ない。
私が気になる山の方を見ていると、法正様が「あれが本命です」と教えてくれた。
その日はこの辺りに住む集落の一角を間借りして幕舎を立てて一晩過ごし、翌朝には人々から軽く見送られながら武陵源に向かった。
向かう先は朝日が霧に反射して、なおのこと白っぽく見える。人の目から何かを守ろうとしているかのよう。

「水と緑の豊かさから霧が生まれるんですかね…まるで人智を越えた何かがいそうです」

霧はこちらの方に流れ、心なしか自分の声がより近い位置で聞こえる。法正様は静かに霧の向こうを見つめていた。
後ろについて来ている何かとおしゃべりな兵士二人も、息を飲んでいるのかまるで静かだ。
集落の人々が言うには、あまりにも険しい地形なので無理に足を進めない方が良いとのことだった。
無理して進められる程度の山岳地帯ではないことはすぐに気づくが、それでも無意識により内部へ踏み入りたくなる気分にさせられる。
そんな山影がうっすら見えるだけの霧の景色だけで胸を打つものがあるが、時間が経つほどに霧が薄まり、異型の山々が見えるようになると口を閉じることすら忘れる光景になった。
山と呼ぶにはいささか語弊があるように思う、高さのわりに細い岩の塊。まるで巨神が側壁を削り取っていったかのような直線的かつ荒々しい山肌。そんな微塵も優しさを感じない地形で貼り付くように生えている草木。
想像の世界にいるようだった。

「武陵源がこんな衝撃的な場所だったとは…まるで思いませんでした」

「…ああ」

黄果樹瀑布も逞しい自然の力を感じたが、ここまで来ると本当に神仙は存在しているんだろうとさえ思う。このような山岳が出来上がる理由が全く想像できなかった。
それは賢い法正様も同様だったことだろう。
足場が悪く移動しながら別角度から眺めるということも出来なかったが、これまで感じたことのない感動と達成感に満足して引き返すことにした。


集落に戻って来たのは夕暮れごろ。
無事帰って来たことを集落の人たちは喜んでくれていた。
しばらく夢の中にいるようなふわふわした感覚の中にいたが、夕餉を準備する頃には全員正気に戻り、仲の良い兵士二人はまるで桃源郷にでも行って来たかのように嘆息しながらその日のことを語り合っていた。

「何だか、瀑布以上のものすごいものを見せていただいたような気がします。ありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ」

私は私で、法正様に感謝を申し上げた。来るときこそ大変だったものの、やはり良い物を見せられると来て良かったと感じずにはいられない。
やや興奮気味にそう伝えて返って来た反応が何となく引っ掛かったが、満足げな表情をしていたので気にしないことにした。

「次はどちらに向かうんですか?」

「すっかり乗り気ですね」

「だってまだ成都に帰る気はないのでしょう?」

「当然です」

何の意味があってしたり顔をしているのか知らないが、夕餉を取りながら地図を見始めたので私もそれを覗く。
とん、と軽く置かれた指の先は洮陽の西。え、と思わず声が出た。

「ま、またそんな遠くに…」

「たった四人でここまで来れたんです。もはやどれだけ離れていようとあまり関係ないでしょう」

「それは…まあ、そうですね…」

こちらに拒否権はないと思うので、口からどんな言葉が出てしまおうと従うことに変わりはない。
また長いこと移動に費やすのか、と思いつつも少し楽しみにしている自分がいた。
相変わらず法正様が何を考えての行動なのかは知らないが。
驚くような景色と、どこまでも続く自然の険しさと、その間で生きている人々。どこに行ってもそう大きくは変わらないのだと、この旅で少し賢くなった気がする。


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