細やか


幸いなことにあの晩の食事会のことが誰かに知られることもなく日々が過ぎた。
下女同士の井戸端会議では時折、好みの殿方の話題で陸遜様の名が上がる。その度にご本人のことであれやこれやと問われるが、私にも守秘義務があるので「もう昔のことだからあまり覚えていない」とやり過ごすことが多い。

城での仕事は楽ではないが、住み込みで働くにはとても良い環境だから気に入っていた。
そこにかつての友人がやって来たのだから、なおのこと離れがたい生活になる。
しかし、はじめこそは廊下ですれ違って軽い会話を交わすこともあったものの、時が経つに連れて回数が減っていった。
きっと定期的に食事会なんてのも開かれるんじゃないかと思っていたのに、ただの一度きりになっている。

「あんなに目の保養だったのに、最近の陸遜様はお部屋にこもりきりよねえ。
お見かけすることがめっきり減って残念だわ」

そんな風にこぼしながら仕事に励む下女がいるくらいだ。
理由は単に忙しいだろうことは察しがつく。
清掃のためだったり竹簡や洗濯の済んだ衣類の運搬で、たまに陸遜様の居室にお邪魔することがある。ご本人の在不在に関わらず、机上で竹簡が小山になっていることがほとんどなのだ。
良家の生まれで聡明な陸遜様だからこそ、早くから目をかけられて仕事を任せられているのではないかと思う。

「線が細いからちょっと心配よねえ。ね、いちこ」

「うん?ああ、そうねえ」

「何だかあんまり心配してなさそうね。もしかしてああ見えて結構体力あるお方だったりするの?」

「いやあ、どうだろう。細いと思うけど」

その話題のことは考えていたが、半分聞いていなかったので反応が遅れた。
何でもないような顔をして洗濯に勤しむ。
今日も天気は良いが、少しだけ風が冷たい。そろそろ秋の入り口に差し掛かっている。
初めて陸遜様と出会ったのも秋頃だったな、とふと思い浮かんだ。
あの頃も、あの大きな屋敷の中で良家の次代を担う一人として、今のように机に向かって勉学に励んでいたのだろう。周囲の期待を背負いながら。

洗い終えた衣服を物干しに掛け終えると、足は自然と下女の長のもとに向かっていた。
今日の仕事が終わり次第、外出の許可が欲しいと伝えるために。
すぐに許可は下りた。日中の仕事を済まし、日が傾き始めた頃に駆け足で城を出る。
少し探し回らないといけない。夜までには戻ろうと決心して走り出した。



城に戻ったのは日が沈んだ頃。ほとんど駆け足で城下をうろついていたので髪が乱れていた。
早足で廊下を進みながら、手で簡単に髪型を戻す。そう明るくないので誰に見つかっても構いやしない。

「あら、いちこ。こんな時間に戻って来て」

「見なかったことにして…」

「はいはい。
…ん、何だか良い香り」

下女仲間に声を掛けられたが、立ち止まらずにそそくさと逃げた。
向かう先は陸遜様の居室。まだ寝るような時間でもないとは言え、暗くなった時間に男性の元に尋ねるのは如何なものかと思ったが、早い方が良いんじゃないかと思った。
陸遜様の居室前にたどり着いたものの、室内の灯りはついていない。
声を掛けてみるも反応はなく、まだ居室に戻って来てはいないようだった。

「失礼致します…」

そろりと居室の戸を開ける。やはり誰もいない。
手にした真新しい紅色の手ぬぐいからは優しい香りが漂う。
机の上で束になって並べられている書簡の隣に、その手ぬぐいをそっと置いた。
四つ角を結い合わせて袋状にしている手ぬぐいの中には、桂花が入っている。香りの元はこれだ。
城下に越して来てしばらくした頃に、桂花が一株だけ咲いているのを見かけていた。
あれから数年経っていたのでどこにあったか記憶が曖昧だったが、うまく見つけてられて良かったと思う。
近くの店で手ぬぐいを買い、片手に乗るだけ摘み取った花を包んだのだった。

良い香りで少しでも疲れを癒して欲しい。そんな淡い願いごとをしながら居室を出た。
他に灯りのついた部屋が所々あるが、辺りは夜の静寂に包まれている。
そっと戸を閉め、誰にも見つからないように下女の宿舎へ急いだ。




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