また一難


「はあ」

少し寒くなってきた夜の空気に、自分の疲れ切ったため息はすぐに溶けて消えた。
こんな遅い時間まで自室外でうろついているのも、全ては執務のためだ。

上から期待を掛けられていることは大変喜ばしい。光栄なことだ。
それでも経験のないことを任されていては、知恵と経験のある人々に力を借りざるを得ないのも当然のこと。先輩方に聞き回った後はひたすら室内で執務をこなす。
さらに今日は随分と長引いた会議に出席していたので、こんな遅い時間に自室に戻ることとなった。

いちこをまた食事に誘おうと思っていたのに、あれから長いこと時間が経ってしまった。忙しさのあまり、城内ですれ違っても立ち話の一つもなく会釈で済ましてしまう。
これからも仲良くしてください、なんて言葉が社交辞令だと思われてしまっているかもしれない。弁明も叶わないことに、また一つため息がこぼれた。
ようやく自室前に辿り着き、戸を開けると、何とも良い香りがする。
…何だか嗅いだことがあるような。

手元の灯りから、室内の行灯と火鉢に火を移す。
昼間、最後に自室を出た頃にはなかった物が机の上に置かれていた。
真新しい紅色の手ぬぐいが袋状に結ばれており、香りはその中から漂っている。そっと結びを解くと、ずっと昔に見た橙色の小さな花弁が詰まっていた。

「いちこ…」

彼女が贈り主であろうことはすぐに気付いた。
甘く優しい香りを胸いっぱいに吸い込む。日々の激務の中でささくれ立った心が穏やかになるのを感じた。
きっと私は、また彼女に助けられたということなのだろう。あの日の会食を社交辞令と思われたわけでもなく、私の目まぐるしい毎日を気遣っている。
礼を伝えなくては。一瞬でも良い、会釈ではなく言葉を交わそう。いちこも待っているのかもしれない。


そう思っても、なかなか機会が巡ることはなく。
二日ほどだろうか、いちことすれ違うことすら全く叶わなかった。
それ故にいざ曲がり角でばったり出会うと、自分でも笑えるほどに驚いてしまった。

「わ、陸遜様、」

「あっ!」

衝突こそしなかったが驚きのあまり仰け反り、抱えていた竹簡がばらばらと床に放り出された。
何を焦っているのだ、と心の中で自分に呆れつつ叱責する。

「も、申し訳ございません!ただでさえお忙しいところ…」

「い、いえ、こちらが過剰に驚いてしまっただけですので…」

結びが解けて広がった竹簡を二人で巻きながら回収する。こんなことで頭が真っ白になっていては、いざ戦場を見下ろす立場になった時に私はどうなってしまうんだ。
竹簡をかき集めながら、ぐっと腹に力を込めて無理やりに冷静さを取り戻す。静かに深く深呼吸をした。

「お持ちになっていた書簡はこれで全てでしょうか。以後気をつけます」

「こちらこそ、すみませんでした。
…それと、先日は良い香りのする贈り物、ありがとうございました」

「あっ、いえ。贈り物だなんて言えるほどの物でもなく…
勝手に居室に侵入してしまい、申し訳ございません」

「とても嬉しかったのです。本当に。もう少し落ち着いたら、また食事に誘わせてください」

言えた。
これだけ短い感謝と次の約束を口にするためだけに、どれだけの時間をかけて、その焦りに自身を萎縮させていたのだろう。
男らしくない。陸家復興などと願いを掲げる者が聞いて呆れる。
いちこは驚いた顔をしていた。が、その後すぐに照れたように笑った。
時間が経ってさらに溝が深くなってしまったのではないかと思っていたが、そうでもなかったようだ。

「私はいつでもお待ちしておりますので。ご無理なさらず、お仕事に励んでくださいませ」



と、そんな会話を交わしてさらに数日後のこと。
天は私を試しているのだろうか。改めて現実というものは厳しいと思う。

「陸遜、お前を都尉に推そうと思うのだが、どうだ」

「私を都尉に、ですか」

「ああ。建業の南、海昌の屯田都尉になって欲しいのだ。
最近、あの辺りで賊が目撃されていてな。お前ほど優秀な者は、机にかじりつくだけではなく経験も大いに積ませるべきと思うのだ」

「光栄です、ありがとうございます。是非とも私めに」

上官からそのように打診されてしまった。ここからおおよそ七百里ほど離れた場所の都尉にならないかという話だ。
ここに心残りがあるので嫌です、なんて言えるわけもなく、二つ返事で承諾してしまった。
推薦する、とのことだが、おそらく私が任命されるだろうと思う。今の私に選択肢はない。
以前の私であったら、何の迷いもなく心から引き受けたことだろう。今は一瞬でも脳裏にいちこの姿が過ってしまった。
いつ出立するのかはまだ分からない。推薦後の軍議で決まることだろう。
慌しく引き継ぎをして建業を飛び出すのが目に見える。それでは、彼女との約束はどうするのか。このままではただの口約束で終わってしまう。

自室に戻り、自問自答する。
そもそも私は彼女に依存しているのではなかろうか。昔馴染みと言えど、ここまで後ろ髪を引かれるものなのか。
私が過去を引きずっているから、過去の中でも心地よい存在だった彼女に依存しているのでは。
彼女が優しいから、それに甘えて都合良く手放したくない存在と思っているのではないだろうか。
どれも当てはまる気がする。

「…どうにかしなくては」

どの道、建業を発つまでにいちこに会わなくてはならない。海昌に行けば、建業に戻るのは何年先になるか分からないのだ。
そうなったら、もう二度と彼女と再会することはないかもしれない。
寝る時間がなくとも良い。彼女と会う時間を優先して作ることにした。

8

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