とある道中にて


「あの…法正様。もしかして遠回りして…ますよね」

武陵源を出て数日。
次に目指す場所は蜀の北側、洮陽のあたりだと聞いていた。武陵源から見て北西へ進めば最短の道筋だと思うのだが、どうやらほぼ北へ直進しているらしい。
国境ぎりぎりを進んだり、少し離れてみたり。時には集落に出会ってぐるりと視察してから通過してみたり。
前々から寄り道をすることはあったが、このところ特に多い。

「せっかくの壮大な行楽なんです。ただただ最短で目的地を目指すだけというのも野暮でしょう」

「確かに…言われてみれば」

これだけ遠出しているのに移動を楽しまないのは勿体無い、というのは最もではある。
しかしこれほど大胆にまったり行楽を楽しんでいて良いのか、今でも時々気に掛かる。蜀に戻るまでの期間はどれだけ許されているのか聞いたことがない。
とは言え、目的達成とあらば規律も無視するような法正様でも、許されていなければこんな道楽なんてするわけないだろうが。

「にしても、段々と寒くなってきましたね」

「もう秋も後半です。その上、この辺り一帯は夏の暑さも冬の寒さも厳しい。
どこかで冬着を買い増すことは考えていますよ」

「それはありがたいです」

「漢中あたりまで行けば、多少は寒さが和らぐかと思いますがね」

冬に向かって時が進んでいるのと同時に北進していれば、寒さが増す速度が上がるのも道理だ。
峨嵋山にいたのは夏が終わる頃。季節もあっという間に過ぎで変わろうとしていた。
跡が残ってしまったものの、矢傷もすっかり治った。まあ、朝晩の冷え込みが増してきたせいか鼻呼吸がしづらくなったが。
集落か、小さくとも町に入れば宿を取れるかもしれない。冷えた空気を吸うのは気持ちが良いので好きだが、屋内でぬくぬくと布団の中で朝を迎えるのも良い。

と、考えていたのも昨日のこと。
気がついたら手綱を握っておらず、馬の上で夕日を受けていた。
頭が痛い。鼻が詰まっているのか口呼吸しかできず苦しい。
状況が飲み込めず、周りを見渡すと相変わらず山道にいるようだった。が、やや近くに集落が見える。

「気が付きましたか」

低い声が上から聞こえる。振り返ると極めて近い位置に法正様がいた。
驚いて声が出ない。いや、本当に声が出ない。えっ、どうして、と言った私の声は、予想外にしゃがれた声で余計頭が混乱する。
なんだか妙に体が火照っているが、特に背中がとても暖かい。というのも、熱源は法正様だった。

「気付いたら貴方が馬から落ちそうでしたので、相乗りしてもらいました」

「も、申し訳ございません…」

「無理に話さなくて結構です。夜には集落に着きそうなので、寝られそうなら寝てもらった方が良いかと」

完全に風邪を引いてしまっていた。軽く考えていた鼻の症状が、まさかここまで悪化するとは。
あまつさえ自分の馬から法正様の馬に同乗させていただいたことにも気付かずにいるなんて。
身動きを取ろうとすると片手で腹を押さえられた。気まずくて馬から降りる意思を見せたつもりだったのだが、法正様は降りさせる気はないらしい。確かに一人で馬に乗れる自信もない。
集落に着くまで大人しく同乗させていただくことにした。


次に気付いたのは真夜中。どこかの建物に入ったらしい。
火鉢に火が入りっぱなしで、少しだけ室内の様子が分かる。いつもの兵士二人は別室なのか姿が見えない。
少し頭を起こすと、視界に人間の脚が目に入った。枕元に法正様が座ったまま眠っている。
火鉢の向こう側にもう一つ寝台があるのにこちらの寝台に座っているということは、法正様は私の様子を見ていてくださっていたのだろう。

「…水はこちらですよ」

けほけほと咳き込んだら法正様は目を覚ました。開口一番にそう告げると小さい瓶に入った水を杯に注ぐ。
ありがとうございます、と掠れた声で礼を伝えて杯を受け取り、一気に飲み干した。
何とも生き返ったような心地がする。冷たい水が腹へするすると落ちていく感覚が気持ち良かった。
法正様が無言で空になった杯に再び水を注ぐ。私はまたそれをぐいと喉へ流し込んだ。
少し喉が開いた気がする。

「…折角の旅で足を引っ張ってしまって申し訳ございません」

「それはこちらの台詞です。まさか、配下の状態も正しく判断できないとは」

「法正様のせいなどでは…」

「しかし、運良くこの辺りは薬草の産地とのこと。集落の者が朝一で採集に向かうそうです。
貴方が朝まで生きてさえいれば、比較的早い回復も見込めるでしょう」

「何のこれしき、物見遊山の先で死んだりなどしません」

水のおかげでいくらか声が出るようになったが、いつもと声質が全く違うことに変わりない。
汚い声のままでへらりと笑いながら応えると、法正様も少し笑っていた。
こんな風に返せるということは、私もまだ風邪なんかには命を奪われたりはしないだろう。
法正様もそう感じたのか、立ち上がって反対側にある寝台へ入って行った。
しっかり眠って、明日の朝には薬をもらおう。
そう思ったのも束の間、すぐさま瞼が落ちて意識が遠のく。法正様が移動する直前に、すっと何かが頭に触れたのは気のせいか。



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