この心の名は



水も風も冷たく、掃除や洗濯といった日々の仕事に辛さを感じるようになった今日この頃。
弱い風にゆらゆらと動く着物を眺めながら一息ついていた。

「いちこ、最近ため息多いわよね」

「え…そうかなあ」

「自覚なしか」

どこからくすねて来たのか、下女仲間が柿を頬張りながら横に来てそう言った。
まあ、悩み事というか、気になることがないこともない。本来私のような下女は自分の仕事を全うすることだけを考えていれば良いはずなのだけど。

「本当かどうか分からないけど、本当だったら嫌よねえ。陸遜様が遠くに赴任するだなんて」

数日前のこと。一日の仕事が終わり、皆で夕食を食べていたら遅れて駆け込んで来た下女が言った。
陸遜様が遠くに行かれてしまうかもしれない、と。関係者が立ち話をしていた横をたまたま通ったため、耳に入ったらしい。
そこにいた下女はこぞって落胆した。というのも、眉目麗しい殿方が建業を離れることになる度に見られる光景なのだが。
私個人としては、焦りにも似た冷たい風が心に吹き付けるようだった。
まだ確定ではないし、仮に現実になったとしても私にはどうにもならない話。少し寂しくはなるが、きっとそれも時間が癒してくれるはず。
それだけのこと、だと思う。多分。

「…結局、いちこと陸遜様って昔のお知り合いってだけなの?」

「うん、まあ」

「まあ、って。あなたいつもそんな具合よね。
確かに下女の私たちがまるで対等かのように、仲が良いです!なんて言えないしね」

「まあ」

「恋心だったとしても、ね」

ぎし、と擬音が付きそうなくらいには背筋が固まった。周りにはそういう風に見えているのだろうか。
二人で食事に行ったり、差し出がましくも贈り物をしたことは事実だが、きちんと下女らしく振舞っていた。何よりなるべく誰にも知られないよう行動をした。
幼き頃の友人と城仕えの役目を両立出来ていると自負していたのに。

「…そんなわけ、」

「冗談よ。でもその濁し方が立場上止むを得ず幼馴染と大声じゃ言えませんっていう理由以外から来ているんだったら、もう少し頭の中整理した方が良いんじゃない」

そんな理由は最初から当たり前のものとして持っている。はずなのだ。
なのにこんなにも、それだけのことだと思い難い。もやもやする。
大声で仲の良さを言えなくとも、真に良い関係ならば良い経験になる遠くへの赴任も心から応援できるだろうに。

ふと縫い目が緩くなっている着物が目に入った。粗末な木の椅子と道具を持ってほつれた部分を繕う。
例えば、これが陸遜様のものだとして。遠くに赴任した際には、こうして陸遜様のお着物を縫う人がいるのだろうか。
もしくは、例えば。長く建業を離れるせいで婚期が遅れるのを気遣った周りが女性を当てがったりして、そのお方がやって差し上げるのだろうか。
不本意だが、心の底でむっとする気持ちが顔を出していた。

そんなこと、私なら上手にいくらでも対応できるのに。

思わず過ぎった仄暗い気持ちに仰け反った。変な位置に糸が通る。
いつも通りに仕事が進まないことにため息が出た。
今日はもう程々に仕事を上がろう。



それから数日。
今日で陸遜様の海昌行きが確定した噂を聞いた。先に散々悩んでおいたので、そう衝撃は受けない。
つい昨晩、やはり素直に現実を受け止めようと思った。私は陸遜様のただの昔馴染みで、城の下女なのだ。
廊下ですれ違うことがあれば軽くこの話題に触れて挨拶を済まし、出立の日に皆に紛れてお見送り。それで良いじゃないか。
ご縁があれば、また再会できることだろう。きりきりした胸の痛みはあるが、まあ仕方ない。挨拶もある程度まとまっているから、急に廊下ですれ違っても冷静に対応できるはず。

などと思っていた。

その日の夕暮れ、仕事が終わって部屋に戻ろうとしていた時だった。
夕日に照らされる城下をぼうっと眺めながら人気のない城の西側の廊下の先を歩いていると、不意に腕を掴まれた。驚いて振り返ると、少し息の上がった陸遜様がいた。

「え、陸遜様、」

「お一人の時に、これを開いて読んでください」

私の手のひらに押し込むように、布に包まれた何かを手渡された。何か言い返す間もなく、陸遜様は翻って小走りで廊下を戻っていく。
呆然と立ちすくんでしまうも、ひとまず布を懐にしまって部屋に帰ることにした。

翌朝、忘れ物をしたふりをして下女たちが全員出払った部屋に戻り、一人で布を開いた。
布の中にさらに布が入っており、そこには陸遜様が書いたであろう綺麗な文字が滲みつつも並んでいた。

「出来るならば貴方と海昌へ向かいたいって…え?」

この件については自分なりに気持ちの整理をつけたのに。一字一句が私の心を乱す。
もし私の事情全てに都合がつくのであれば、うまく口実を作る方法を提案するのでついて来て欲しいと。
引き受けるならば簡単に返答を、却下であればこのまま出立の日に見送りだけして欲しいと、そう手短に書かれていた。
心の臓が熱く強く脈を打つ。すぐ仕事に戻らなければならないのに、全身で混乱してしまって立ち上がることができない。
まず何より他人に見つかっては危険だ。力任せに布を包み直して懐にしまった。

「どうしよう…」

ああ、今日も仕事がうまく行かないかもしれない。

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