九寨溝




今朝は少し、吐いた息が白く見えた。
少しの不安と好奇心と、不意に湧いた淡く甘い気持ちを抱えて山道を進む。
空気は冷えているが、背中に受ける朝日が少しずつ体温を温めてくれている。
葉が枯れ、寒々しい姿になった木が多くなって視界が広がったとは言え、山道なので先は見通せない。どのくらい進めば異民族の地域が見えてくるのだろうか。

「そう言えば、数年前に馬超様と共に蜀に降った部族がいましたよね。そことは何か関係はあったりするんでしょうか。地理的に」

「ああ、まさに彼らのことです。彼ら氐は、同じく馬家と協力関係にあった羌とは違い、争乱後に曹操の元に降る者、中原に出て行った者、蜀に降った者と散り散りになりました。
彼らの一部がこの辺りに残り、半農半牧で暮らしているんです」

「そうなんですね。…勉強不足ですみません」

「ふ」

蜀で近年起こった出来事なのに、全く頭に入っていなかったことが少し後ろめたい。
謝ってみるも小馬鹿にしたように鼻で笑われた。
法正様曰く、今回少し余分に荷物を持ったのも彼らと関係があるとのこと。
蜀と敵対した末に降った、という訳ではないとは言え、生活のために仕方なく庇護下に入らざるを得なかった人々だ。もしかしたら私たちに良い感情を持っていないかもしれない。
少しでも抵抗感をなくしてもらうために、手土産として米や豆を用意したのだった。
半農半牧であるがゆえに起きる穀類の不足分を、よそから調達しているらしい。
これから訪れる厳しい冬に、この手土産を要らぬと突っぱねる事はないだろう。


肌寒い野宿を耐えて数日。なかなかに勾配がきつい山中に、石造りの民家が集まった集落が現れた。
私たちが普段見慣れている形の屋根はなく、ほぼほぼ真っ平らだ。家の形がおおよそ四角に整えられ、唐辛子やら食材がぶら下げられている。
当たり前だが、近くには豚や牛などの家畜の姿もある。
集落に近づくと村の者が気づいたようで、作業している手を止めてこちらを見ていた。その中の一人が駆け足で向かってくる。
私たちは馬を降り、兵士は荷の中から手渡す予定の穀物が入った袋を取り出した。

「もし、蜀の人ですかい」

「ええ。このあたりにあるという泉を一目見たく旅をしていまして。この時期ですから屋根を貸していただけるとありがたいのですが。勿論、ただでとは言いません」

目的地は泉だったのか。こんな高山地帯にそんなものがあるのだと勝手に一人で驚く。
同時に村の男もぎょっとしたような顔をしていた。

「泊めても良いですが、何も今あそこまで行かんでも…」

「まあ、誰もがそう思うでしょうね」

この集落にたどり着くのも一苦労だったのに、さらにこの寒空の下、山へ分け入るのだからそう言われるのも当然だろう。
それでも旅路を変える気は無いそうなので、法正様も平然として応える。

「この辺りの集落は皆そうですが、人も家畜も子が生まれる時はよそ者を敷地内に入れません。産気づく前に村を出ていただくこともある事を分かって下さるならば、どうぞ我が家に」

「承知しました。ではよろしくお願いします」

予想よりすんなりと交渉は成立した。
広いとは言えないが、石造りの家はしっかり冷たい風を防いでくれている。幕舎より断然寝やすいだろう。
手土産は喜んで受け取ってもらえた。

翌朝、泉まで向かう道を確認した後に村を出た。泉は九寨溝と言うらしい。
夕暮れまでには九寨溝からこの集落に戻って二連泊の予定だ。
残るほどではなかったが、夜が明ける前にはここでも雪がちらついたらしい。いよいよ冬の訪れのようだ。
集落でもそんな状態なので、当然馬を進めるほど山のあちこちに白い塊が見え始める。日が昇っていても寒い。
風を受けやすい鼻先と頬が冷たくなっている。道中で防寒具を買い足さなかったらどうなっていたことやら。

「鼻先が赤いですよ」

「そりゃあ、寒いですからね」

案の定話題にされたので、つっけんどんに言い返した。襟巻きを口元まで覆っているので法正様からは見えないだろうが、私は今口を尖らせている。
機嫌が悪いわけではない。ただ心がむずむずするから。

そんな短いやり取りを何度か繰り返し、彩度の低い緑色と白色の風景をくぐり抜け。
法正様の馬が減速して立ち止まる。合わせて立ち止まって馬を降りると、何やら目に刺激を受けたような錯覚に陥りそうになった。
目の前には空よりも鮮やかな濃い青で染まった泉。思わず目をこする。
筆舌に尽くし難い光景だった。強いて言えば瑠璃とでも言おうか。私は本物の瑠璃を見たことはないが、きっと途轍もない大きさの瑠璃が広がっていると表現しても過剰ではないだろう。
一部緑を含むその泉は日光できらきらと輝き、水の底には倒木が模様を描いている。
異様なまでの透明感を誇っていた。
普段は仲良く賑やかな兵士二人も息を潜めている。水面に触れると、静かに波紋が広がっていった。水の流れはあるのだろうが、非常にゆるやかなようだ。

「ずっと山々に守られて来たんでしょうね」

鏡のように私の顔が映る。その奥には土に還らない枝葉が見えた。
山は泉を守り、泉は空と木々の光景を写し取って保存する。どんな理由があってかは知らないが、そんな風に人ではない何かに作られた場所のように思えた。

「おっと、」

泉の中に夢中になっていたら、雪でぬかるんだ地面に片足を取られてしまった。
大きく波紋が広がる。水底が歪み、光が細かく揺れる姿も生きた宝石のようで、目を奪われた。
靴に冷たい水が染みる。同時にぐっと二の腕を強い力で掴まれた。

「やらかすと思いましたよ」

思わず息が止まる。法正様の支えで体勢を整えた。

「子供が水たまりに夢中になっているかのようでしたから」

「こ、子供じゃなくてもこの光景は誰だって…」

「まあ、そうですね」

つい直前まで全員そろって景色を食い入るように見ていたと思ったのに。
落ちそうになったのと法正様の言動が重なったせいで脈が早い。

「貴方も似合うんじゃないですか」

「な、何がです」

「九寨溝が」

何を訳の分からないことを、と思ったが、旅に出始めた頃の記憶が頭をよぎった。
黄果樹瀑布で、法正様が絵になるとか何とか。あの時は本当に適当なことを言ったのだったが、今更になって猛烈に恥ずかしくなる。
そのことと重ねてのこの発言なのだろうか。目の前の美しい光景が台無しになるほど目が泳ぐ。
あの時のことは水も滴るなんとやらでも、今回は月と鼈だろうに。

「ああ、貴方は本当に面白い」

法正様はしどろもどろする私を見て、とても愉快そうに言った。
悔しさと、恥ずかしさと、あとは何だろうな。またしばらくは法正様のことを直視できなさそうだ。
こうしてこの旅最大級の光景と、言葉にできない恥ずかしさを心に刻んで氐の集落へ無事帰還した。

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