下級文官の日常
春の日差しが暖かい昼下り、複数の下級文官が集中力なく机に向かう執務室にて。
昨年、下っ端も下っ端だが女でありながら内政の文官となった流星はそこにいた。
元々は劉備の入蜀に伴い混乱した成都で発足した有志の治安維持部隊にいた、ただの活発な町娘だった。
治安維持と言っても当然力勝負の場面では役に立たないため、口頭で収められるものを収めていただけにすぎないのだが、これまた人の心を落ち着かせる能力に長けている。
まだまだ混乱する蜀で、たとえ女だとしても使えると思えば国としては使いたいと思うのだろう。
役人に目をつけられ、あれよあれよと言う間に仲間もろとも内政を担う一員となった。
「ああしんどい……」
名もなき地元の仲間と共に市井の治安について報告をまとめている最中、絞り出すように疲労を含んだ言葉が漏れ出る。
これと言って学がない流星は、文官として採用されてから急遽文字を覚えた。
一年間頑張ってきたものの、初めから心得がある者と比べれば書簡を作成する速度は当然遅い。
半ば放り投げるように筆から手を離し、窓から外を眺めた。
「あ、法正様だ」
「……お前さ、また変な人と仲良くなってないだろうな」
執務室の向こう側を歩く者の名を呟けば、隣で似たような作業をしている仲間が呆れたように話しかけてきた。
その態度に流星は少し口をとがらせる。
「変とは何だ、変とは」
「この前だってあの張飛様と仲良くなって飲みに行って、酔っ払って倒れ込んできた張飛様の巨体を避けるために派手に転んだんだろ。
少しくらい付き合う相手を選べ」
「はあ」
「はあ、ってなあ……」
服で隠れてはいるが、流星の肘や膝には痛々しい青あざが今でも残っている。
人の心を落ち着かせる能力とは、言い換えれば誰とでも打ち解けてしまえる能力でもあった。
そのため痛い目を見ることもしばしばあり、そのたびに周囲から言わんこっちゃないと言われるまでがお決まりの流れである。
「張飛様だってわざとやった事ではないよ。
あれは私が鈍くさかっただけ。
法正様も噂よりずっと普通の人だったし、まだ何もされてないのに怯えなくてもいいでしょ」
「されてからじゃ遅いだろ……」
戦にいたら真っ先に死ぬ人間だろう。
流星の警戒心のなさに頭を抱えた。
「とにかく、お前は脇が甘いんだから気をつけろよな。
この治安の低下した市井の調査だって本来は女が呑気にやってられない仕事だぞ」
「はあい」
納得行かない様子で気の抜けた返事をする。
同僚のお説教を聞きたくないのか、やる気もないのに筆を持ち直してのろのろと報告書の続きを書き始めた。
翌朝、城内にて。
昨晩は報告書の提出が間に合わなかった流星は朝一に登城していた。
さも昨日上官が帰った後で提出したかのように装い、書簡を置いてきたのであった。
まだ文官や武官たちの姿は見えない。ぶらぶらと歩きだすと、いたる所で兵士や下女が慌ただしく朝の仕事をこなしているのが見える。
懲りずに見ず知らずの門番の兵士と夜な夜な駄弁っていたことは同僚に口が裂けても言えないが、体は正直なものであくびが止まらないのであった。
「眠そうですね」
掃除や家事の物音だけがかすかに響く人気のない通路で、不意に低い声が斜め後ろから聞こえてきた。
「ああ、見られてしまいましたか……おはようございます」
他の者ならこの状況に驚き怯え、逃げ出すであろう。城内では悪評でよく知られた法正がそこに立っていた。
警戒心の欠片もない流星は怯むことなく正対する。
「法正様は早起きなんですね。
……いや、もしかして徹夜ですか?」
「ご明察。何をとは言いませんが、痛めつける策略が次々と浮かびましてね」
「ああ、深くは聞かないでおきますね」
物騒な発言を冗談だと思っているのか、あるいはその容赦のない行いが自分に向かない自信があるのか、流星はけらけらと声を上げて笑った。
「噂通り貴方は警戒心が皆無のようですね」
「ええ、まあ。よく言われます。
噂になってるなんて知りませんでしたけど。
私の中ではきちんと線引きがあるつもりなんですけどね」
「人をよく見ているんでしょう。
現に今、俺は貴方に何かする気はない。
並の人間なら俺の思うところと関係なく近付くだけで怯えます。
貴方を何らかの地位に就けさせたくなりますね」
「ご冗談を。学がないですから」
再び流星が声を上げて笑う。
通りかかった兵士がぎょっとした顔で遠目に二人を二度見した。
成都で法正と談笑する者は数少ない。
一方で付き合う人間を選ばなさすぎるのも流星くらいのものだ。
その警戒心のなさ、悪党などと呼ばれる男とまでつるむ節操のなさに二度見するのも無理はない。
「あ、私はそろそろ戻りますね。仮眠してからお仕事します。
法正様もどうかご無理なさらず」
「ええ。報恩報復の機会が尽きるまでは生きるつもりですので」
「あはは。ではまた話しましょうね」
手を振りながら法正と別れつつ、姿が見えなくなったところで大きなあくびをした。
全ての城勤めが城内に住めるわけではない。朝日で赤く染まった城を後に、流星は自宅へ向かった。
しばらく仮眠を取った後、城へは戻らず調査の現場へ直行。夕方には再び執務室で報告書をまとめる作業に入った。
窃盗や喧嘩は毎日、いや毎刻のように起こる。日々の報告書も似たような内容になりがちだ。
治安改善の具体的な方法を考えるのは上官の仕事だが、如何せん平和の兆しを体感できない日々にため息も出る。
ふと筆を止めて窓の外を見ると、知り合いの女官が見えた。流星が手を振れば、彼女もそれに気づき手を振りかえす。
そのまま女官が駆け寄ってきたので窓越しに話しかけた。
「この間はどうも。元気?」
「ええ、今日も元気よ。
そういえば流星さん、今朝は法正様と一緒だった?」
「ああ、うん。そうだけど」
「話題になっていたといえば大袈裟だけど、少しばかり噂になっていたの。
法正様とあんなに楽しそうに会話できるのは劉備様と流星さんくらいなものだって」
けらけらと二人分の笑い声があたりに響く。
執務室内の視線が窓際に集まる。流星が誰かと談笑しているのだと分かると、何の疑問もなくそれぞれ作業中の書簡に視線が戻った。
身分関係なく誰とでもつるみに行く姿はこの一年で当たり前のものとなり、初めは子供だの慎みがないだのと注意していた者も諦めてしまった。
今では日常の当たり前の風景である。
仲の悪い者同士でのやりとりが必要になってしまった際には、彼女を仲介人として利用するようにもなっていた。
本人はそのことに気づいてはいるが、あまり気にしていないようだ。
「まあ、城内にも全く悪い人がいないわけじゃないし一応気をつけてね。
隙間女さん」
「隙間女?」
「あなたを誰の心の隙間にも入り込んでくる妖怪、みたいにからかう人もいたわよ」
「なんだそりゃ……」
執務室内からもくすりと小さい笑い声がした。ここにもその言い様を知る者はいるのだろう。
そんな風に言う人もいるのか、と流星は頭を掻く。仕事に戻って行った女官をぼんやり眺めながら見送った。
しばらく隙間女とは何か、と考えながら報告書をまとめていたが、出来上がる頃には妖怪なのも楽しいかもしれないと思うに至った。
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