仮昇進


数日後の夜。
すっかり日が暮れたものの、この日流星は上官が私室に戻る前に書簡の提出を終えた。
日中の春の日差しは暖かいが、夜ともなれば少し肌寒い。
今晩は店で一杯引っ掛けてから帰ろうかと考えながら執務室から出た。
夜勤の兵と交代し、帰宅する兵らを横目に見ながら薄暗い通路を抜ける。
十字路を通りかかろうとした時、守衛を連れた法正が暗がりから現れた。

「お疲れ様です、法正様」

「これはこれは流星殿。
今日はきちんと書簡の提出は間に合ったんですか」

法正の言葉に流星はぎくりと表情を強張らせた。
先日なぜ朝一に城内をうろついていたのか話していないはず。
にも関わらず法正は知っている。
間に合いました、と目を泳がせつつ正直に答えると、法正は意味深な笑みを浮かべて守衛を下がらせた。
複数人の足音が遠のき、暗い十字路の真ん中で二人きりになる。

「なぜ私の仕事が遅いことをご存知で……?」

「勿論調べましたよ。言ったはずです、貴方を何かしらの地位に就けたいと」

冗談と思っていたことに驚きを隠せず、流星は目を見開く。

「調べたのなら私の学のなさも理解なさったはずです。私ごときではそんな、」

「学がないのなら学んでいただきましょう。やる気があるのであれば、ですが」

思ってもみない誘いに、衝撃のあまり立ちくらみのような感覚さえあった。
考えに整理がつかず、流星は目に見えて頭を抱える。
学んだところで才覚がそもそもあるのか、期待をかけられた上で見合った成果を出せるのか不安でしかなかった。
流星が答えに詰まっていると、法正は城下へ出る門とは逆の方角を指し示す。

「まだ夕餉も済んでいないでしょう。空腹では判断力が落ちる。
俺の私室で食事でもしながら続きを話しましょう」

「ええ、まあ……じゃあそうします」

流星の答えに法正は満足げであった。
足取り静かに、守衛以外誰も近寄らない法正の私室へ向かう。
余人を排し、いつもと違った神妙な顔つきで無言で法正と共に歩く彼女を姿を見た城内の者は震え上がった。



二人が法正の私室に入り、料理が運び込まれ、月の位置が少し昇った頃。
次第に私室からは笑い声が聞こえるようになり、外にいた守衛も普段とは気配がまるで違う部屋の様子に内心戸惑いを隠せずにいた。

「いやあ法正様、それはさすがに不審者になりますよ!実行しないでくださいね!」

法正と語らってこうも大笑いする者はいないだろう。
彼の徳性のない発言は劉備も困り顔で諌めることが多い。位の低い者であればあるほど無言であったり、ひたすら肯定だけする者ばかりだ。
酒が入っているとは言え、流星のような極めて下級の文官が彼の発言を笑いながら諌めるなど前代未聞。
しかし不思議と不快に思えない人格が唯一無二と言ってもいいほどだった。
ひとしきり笑い終えて部屋が静まり返る。

「はあ、楽しい……
こんなに美味しいお酒やお食事をいただいてなお教育までして、それなりの立場に就かせていただけるなんて……
私は明日にでも死にかねませんね」

「死んでもらっては困りますね。俺がもてなして頼み事をしているんです。
応えてもらわなくては今日の意味がない」

「そうですよね。
……私、ご期待に沿えるよう頑張ろうと思います」

「そう言っていただけると思いましたよ。
では、準備が必要なのでまた明日ここに来てください」

気づけばもう月が高く昇っている。
部屋から出ると涼しい風が頬や髪を撫でて行った。
己の新しい生活への高揚感と酒の酔いで、世界がまるで変わったかのような気分にもなる。
その日は守衛を付けてもらい、流星は帰宅した。


翌朝、流星が法正に言われた通りに彼の私室前まで来ると、守衛の他に女官も立っていた。
彼女を見るなり一礼し、移動を促す。
法正から何かことづかっているようで、荷物も抱えていた。

「本日より流星様には私室をご用意しております。
なお、執務を行う際は諸葛亮様の執務室までいらしてくださいとのことです」

「え、え?」

「まあ、お聞きになりませんでしたか?」

昨日の今日で私室まで用意されているとは思わず、流星は驚きでろくに言葉が出なかった。
何より自宅から何も持ってきていない。完全に手ぶらで来ていた。
また後で荷物を取りに戻らないと、と考えているうちに今日から寝泊まりするであろう私室に着く。
当然他の高官と比べたら質素なものだろうが、それでも思ってもみなかったことに気分は高揚した。

「こちら、流星様にお渡しするように言われたお品です」

「わあ、新しい文具……」

「もう少しで諸葛亮様もいらっしゃるかと思いますので、ここでお待ちください。
では、これにて失礼いたします」

静かに扉を閉めて女官は出て行った。
外からは人々の活動する物音や声が聞こえる。

城下にある自宅は知り合いから借り受けた狭い家だった。
一人で暮らすには十分であったが、ここはその三、四倍ほどの広さだ。
しばらくは落ち着かないかもしれない、と流星は隅々まで見渡しながら呟いた。
物が少ないので若干声が響く。

とりあえず用意されている椅子に腰掛け、文具などが入っていた箱を開けた。
竹簡も一巻き入っており、開けてみるとびっしりと文字が書かれている。
城に仕える者としての心構えのようなことが書かれているようだった。

「まずい……読めない文字があるぞ」

早速学のなさでつまずいてしまう。
机に竹簡を広げ、かじりつくように分かる部分だけ読み始めた。

「流星殿。いらっしゃいますか」

「あっ、はい」

しばらくすると外から名前を呼ばれ、小走りで扉を開けると諸葛亮が立っていた。
拝礼して部屋の中に迎え入れる。
彼が外へ目を向けて制止するような身振りをすると護衛らはそこで立ち止まり、誰一人として室内に入って来なかった。

「磨けば使えるようになりそうな人間がいる、と法正殿からご紹介をいただきました。
……貴方とは一度立ち話をしたことがありましたね。その才を私が見抜けなかったと言うことかもしれません」

「いえ、とんでもないです。学がないもので、才があるなどと自分自身思ってもみませんでしたし……」

「我らの入蜀以降、国としてまだ落ち着いたとは言えない状況です。
人材不足も否めません。即戦力を見つけることにも限界があります。
才を見抜き、育成していくことは私たちにとって大いに利となるでしょう」

法正とは何やら馬が合わないようで、内政にまつわる人材を先に見つけられ紹介された諸葛亮は悔しげとも取れるような表情を浮かべた。
悪党との噂が絶えない以上、常日頃から何かあるのだろうと察せられる。
そこに突っ込んで話を聞くのも野暮と思った流星は苦笑いだけ見せ、触れないことにした。

「早速それを読み始めましたか。良い心がけです」

読みかけの竹簡に気づき、諸葛亮は机に寄る。
感心する彼の言葉をよそに、流星は気まずそうに自らの頭を掻いた。

「それが、その……お恥ずかしながら読めない文字がありまして……」

「そうでしょう。それは想定済みです。
諸々の説明をしますので、私の執務室に向かいましょう」

そんな基礎中の基礎まで直々に教えてもらえるのか、と内心いたく感動する。
位の高い法正の紹介とは言え、諸葛亮直々に指導される機会を得られたことに驚きを隠せないが、決意した以上流星は奮起していた。
外に出ると雲一つない空が爽やかに広がっている。
深呼吸し、晴れ晴れとした気持ちで諸葛亮の執務室へと向かった。

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