昇進、その後


最初こそ新しく私室を与えられ、一から文字も教えてもらえると喜んでいた流星だったが、それからは今までより忙しい毎日だった。
諸葛亮の声や口調こそ静かなものだが、その指導は理路整然とした発言が激しい嵐のように降り注ぐ。
自分の判断が試される場面ではなぜそう考えたか事細かに詰問され、矛盾や論拠に乏しい点があるとたちまち長たらしい講義に入る。
毎日くたくたになるほど勉強をしても、流星にとって何一つ彼に勝てる要素がなかった。
朝から晩まで静かで猛烈な指導を受け続ける。
そんな生活は実に二年続いた。

この頃になると諸葛亮が流星に何をさせたいのか、彼女自身も分かっていた。
民衆の生活を報告書から見抜き、社会的仕組みを変える必要があるものは上に報告、比較的軽い指示で済むものであれば各所に通達、実行させる役割だ。
言い換えれば民の御用聞きとも言える。
実際に立場の弱い民として暮らしてきた経験と、人当たりがよく上手いこと物事を運ぶよう人に願える力は最適だった。

少しずつではあるが次第に仕事を回せるようになった頃、諸葛亮の執務室から卒業し小さくも個人の執務室が与えられた。
日々様々な報告書が持ち込まれ、当然多くの人間が部屋を出入りする。
人当たりの良い流星はその度に軽く雑談をしていたので、城内でも最もゆるい雰囲気のある場所になりつつあった。
彼女自身もそれを良いこととして享受していたのだが、その状態が長く続くことはなかった。

「流星様、先日の件の追加の報告書をお持ちしました。
……おや、お疲れですか」

「ああ、ありがとうございます。今日は立て込んだせいでお昼食べてなくて……
良かったらこの後一緒に一杯どうです?」

「それは大変でしたね。
……流星様と酒を飲むのは楽しいのですが、また今度にさせていただきます」

「それは残念。また誘いますね」

夕日が山の向こうに隠れ、日中の疲れを癒しに酒を飲みに行こうとしても同伴者が捕まりにくくなった。
それ以前に、心なしか一人一人の室内の滞在時間が減っている。
流星を嫌っている様子はない。少なくとも避けられたり視線が泳ぐなどといったこともない。
おかしいのは執務室内、それと夕方以降の個人的な誘いをする時だ。それが普通のことなのかもしれないが、雑談の長さがぐっと減っている。
やはり地位の差を感じて遠慮しているのか、と内心寂しい思いをし始めるようになった。

「失礼しますよ。流星殿」

「お久しぶりです。法正様がいらっしゃるなんて珍しいですね」

とある日、流星の執務室に法正が訪れた。珍しい来客に思わず笑みをこぼす。
普段のもの寂しさも相まって、思わず法正のおかげでここでこうして仕事できていると言う感謝の気持ちをべらべらと捲し立てた。
雑談不足が目に見える。そんな彼女の様子に法正は満足げな表情を浮かべた。

「ああ、一方的に話してしまってすみません。
そういえば、こちらにいらしたのは何用で?」

「先ほど流星殿宛の書簡を持って迷っている者がいましてね。
代わりに持ってきた次第ですよ」

「法正様ほどのお人がわざわざ……ありがとうございます。
お礼はさそかし高くつくでしょうね」

「この程度のことでは何も要求しませんよ。俺も暇ではないのでね」

法正の言葉に流星は楽しげに笑う。
近頃は皆手短に執務室を去っていくため、悪党相手としても何となく心が満たされた気分になる。
もう少し話していたいとも考えたが、法正の方が忙しい身の上であることは当然理解しているので気を遣って切り上げた。
気持ちを入れ替えて再び机に向かう。

この日を境に、流星は法正と会話することが増え始めた。
不仲であるはずの諸葛亮と共に訪れることもあれば、執務室の外で出くわすこともある。
元々あまりにも人を選ばず交流を持つ人間として珍しがられていたが、あの法正とも仲が良いことで有名人の域に達していた。


そんなある日、執務終了後に法正から私室に呼び出される。
私服に着替えて向かうと、いつの日かのように美酒と豪華な食事が並んでいた。
夕餉前だったこともあり、流星の目は嬉しさにきらりと光る。

「最近良い仕事をしていますから。諸葛亮殿に代わって俺からの感謝の気持ちです」

「いえいえそんな、私なんてまだまだです。
でもいただいて宜しいですか?」

「勿論です」

そう言って席に誘導される。その際に軽く流星の二の腕に法正の手が触れた。
そのことに何となく違和感を覚えたが、豪勢な食事の前にはそんなことは吹き飛んでしまった。
あの日のように隣り合って談笑しながら食事をする。
法正と流星の仲にすっかり慣れてしまった室外にいる守衛は、大笑いする声が聞こえても今では少しも驚きもしない。

「ああ、やっぱり人と飲むのは楽しいですね。
最近飲みに行こうと思っても全然相手が捕まらなくて……
私の地位が上がったからみんな遠慮しているんですよね、きっと」

珍しくしおれた様子を見せる流星に、法正はふっと鼻で笑った。

「あ、今笑いましたね。
私は隙間女と呼ばれることが取り柄なので気にしているんですよ。
法正様だって、そこに期待して諸葛亮様に私を推薦したのでしょう?」

「まあ、そうですね。
寂しいんですか?」

「寂しいですよ、そりゃあ」

「でも執務に差し支えはないでしょう。問題ないかと」

少し期待外れな法正の発言に、流星は首をかしげる。
いつもの冷静で見下したような悪い顔を崩さない法正の表情が緩んで見えた。
一度そう見えると気になって仕方がなくなる。

「法正様、もしかして何か企んでますね」

「おや、さすがの観察眼ですね。さらに成長したと言うべきか、俺が退化したと言うべきか」

「ああ、企んでるんだ……」

絶望したかのように大袈裟に頭を抱えて見せる流星。
それを見て法正はさらにくつくつと楽しそうに笑った。
がばりと姿勢を戻して法正を見つめる。それはそれは愉悦そうな顔をしていた。
その表情にむっとしかけた刹那、法正は自身の手を流星の杯を持った手に重ねながら彼女に酒を注いだ。
さすがに流星も驚いて目を丸くする。

「流星殿は悪党とできている、とでも噂されているのではないですか」

低く静かな声で囁かれる。
思ってもいない発言に頭が混乱し、少しの間何も言葉が出なかった。
重ねた手が離れると途端に流星は慌てて笑顔を作り、取り繕うように思ってもいないような返答をする。

「ああ……それは面白いですね」

「ふ、心にもないことを」

「ばれましたか」

即座に見抜かれ、流星はますます焦ったように笑う。段々と顔が熱くなってきていた。
はて、法正という男はこうやって女をたらしこむような人間であったろうか。そんな考えが頭をぐるぐると駆け巡る。
心の臓がばくばくと音を立て、変な汗が流れているような気さえしてきた。

「そっち方面の噂を耳にしていないのでそんな方とは思ってもいませんが、その。
私は老若男女全ての方と健全なお付き合いをしているだけであって、誰とでもそういう関係になる人間ではありませんゆえ……何というか」

「相当混乱しているようですね。からかい甲斐があって結構。
俺とて恩を仇で返すような真似はしません」

法正に恩があるのは自分の方なのでは、と思いつつ床に落としていた視線を恐る恐る上げる。
先ほどまで楽しそうに悪い笑みを浮かべていた法正は、真顔で流星を見つめていた。
目を合わせ続けることも出来ず、杯や食べ終わった食器に目が行って落ち着かない。
何か言われなければと思うほど言葉が喉でつっかえてしまう。
沈黙が刺さるほどに痛かった。

「あまりいじめると誰かさんが小言を言ってくるので、今日は解散にしましょう。
そこの守衛に送ってもらってください」

「あ、えっと。今日はありがとうございました」

「こちらこそ」

法正から解散を提案されると金縛りから解かれたように声が出た。が、言えたのは酒や食事に対する礼だけだった。
最後、流星が部屋から出る間際にちらと法正の顔を見たが、何を考えているのか察することはできなかった。
明日から少し距離をおこうかとも考えたが、それはそれで何か噂になるかもしれない。それに法正のことは嫌でもない。
私室に帰るまでの間の記憶がなくなるほどに、流星は一晩思い悩んだ。

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