籠絡
翌朝からぱたりと法正から流星への接触がなくなった。
そもそも二年間関わり合いになることの方が少なかったため、ここしばらく顔を合わせることが多かったこと自体が珍しい。
たまたま執務に余裕ができて接触する機会が増えただけかもしれない、と流星の中で自己解決することにした。
そしてあの夜のことは忘れることにする。そうでもしないと柄にもなく答えの出ない悩み方をしてしまいそうだった。
「今日は一緒に夕食しない?私の私室で」
「ごめんなさいね、今日は外泊許可が降りて彼のところに……」
「何とまあ。お幸せに」
相変わらず誰かと余暇を過ごそうとしても誰も捕まらない。
流星と同じような年齢の女官には男がいたりするのだ。
にこにこと嬉しそうに照れながら断ってくる。連日の敗北にため息を漏らした。
「男、ねえ」
思い出さないようにしていたのに、流星の脳裏には自然とあの日の法正の言動が浮かんでくる。
とても驚いてはいたが、触れられて嫌な思いはしなかった。
特に智将特有の本心を隠したような態度が消えた、真っ直ぐ見つめる目をはっきりと思い出してしまう。
法正の印象が少し代わったような気がしていた。
結局夕餉には手がつかず、流星はふらりと法正の私室へと足が向いていた。
当の本人はまだ戻っていないようで、どこかしこも真っ暗だ。
守衛に見つからない位置で壁にもたれ掛かり、月を見上げる。新月が終わったばかりで、か細い姿をしていた。
暗闇に消えそうなそれを見ていると、こちらまで心細いような気がしてくる。
本日何度目かのため息をついた。
「おや、流星殿ではないですか」
しばらくして、護衛を連れて帰宅した法正が暗闇から現れた。
灯火に照らされたその表情は、いつも通りの悪い人相で少し笑みを浮かべている。
その顔に軽蔑や不信感のような気配がなかったので、流星は内心安堵した。
「こんな所で待ち伏せするように立っててすみません。最近法正様とお話してないなと思いまして」
「そう言えばそうですね。こんな場所で立ち話も何ですから、中へどうぞ」
そう言って移動を促されるのと同時に、法正が上着を脱いで流星に羽織らせた。
思わぬ心遣いに驚き、小声かつ遅れて礼を口にする。
いまいち思い通りに動かない体が不思議でならなかった。
「日が暮れてからこの悪党の私室に一人で来るような人間は流星殿以外いないでしょうね」
「まあ、そうかもしれませんね」
余人を排して開口一番、部屋に明りを灯しながら法正は意地悪そうに笑って言った。
流星も否定はしない。己の特異性は城で従事するうちにすっかり理解した。
「なんだか寂しくなりまして。相変わらず誰も捕まりませんし。
……誰かさんのせいで?」
確信はないので疑問のように語尾を上げる。
流星も少しいたずらっぽく笑ってみせると、法正は目を細めた。
珍しい表情に思わず見つめてしまう。
「そう考えていながらこの時間に一人で会いにくると言うことは、それなりの覚悟がおありなんでしょう」
「確かめに来たんです。駄目なら逃げます」
「この俺の前から逃れられると思っているとは」
足踏みをして逃走する真似をしつつ、法正の物騒な発言に流星が噴き出す。いつもの調子でからからと声を出して笑った。
一度笑ってしまったらあの日から引きずっていた心のもやが消えたようで、晴れやかな気分になる。
初めから仕組まれていたに違いない。向いている役職があることは事実だとしても、逃れられないように地位をつけ、少しずつ近寄り、法正に意識が向くように邪魔者を押しのけた。
確証はなくとも、ぼんやりとそんな想像がつく。
気恥ずかしさがあるものの、体の向きを変えて法正と正対した。
「でも、この前も逃してくれたではないですか」
「ええ。戻って来る想定だったので」
「めちゃくちゃ罠にはまっていますね、私」
つまり自ら捕獲されに来てしまったのだ。
法正が手を伸ばし、指先で流星の頬に触れる。
身じろぎひとつしない様子を見て、今度は両手で頬を包んだ。
嫌ではない、むしろ心地よささえ感じて流星は目を閉じる。あの日、別に驚いて帰らなくても良かったなと思った。
そんな心を見透かしてか、法正の親指が彼女の唇へと動く。
「悪党にこんな無防備な姿を晒すのであれば、もう後戻りさせませんよ」
ええ、どうぞ。
そんな言葉を思いながら目を閉じたままでいると、悪党とは思えない優しい口づけが降ってきた。
恥ずかしさのあまり少し笑ってしまう。それでも手が離れていくことは阻止したくて、流星の頬を覆う法正の手に己の手を重ねた。
再度、少し長めの口づけをされる。啄むように唇を柔らかく食まれ、とけるような感覚が身体を包んだ。
実は法正のことを好きだったのかもしれないと今更自覚し、さらに気恥ずかしくなる。
流星は法正から離れ、両手でぱたぱたと扇ぐように顔に風を送った。
「ああ、暑い……」
「この程度で熱いと言われては困りますね」
「……突っ込んで良いのか分かりませんなあ」
にやけ顔が止まらなくなり、それを見られたくないので流星は背を向ける。
恥ずかしさにぶつぶつと言い訳を垂れていると、法正に後ろから抱きすくめられた。
思わずびくりと全身を震わす。
「俺が貴方の寂しさを全て埋めますよ。
貴方から俺に懇願したくなる程に」
耳に口づけを落とされながらそう言われ、流星は膝から崩れ落ちそうになる。
力強く抱きしめられて床へ倒れることはなかった。
「踏み込んじゃいけないことに踏み込んだような気分です……でもこのままのめり込みたいような……」
「それは誘っているんですか?」
「め、滅相もない!」
法正の腕の中でじたばたすると、思いの外すんなりと流星を解放した。
相変わらず暑そうにしている彼女をじっと見つめる。
「そう急ぐこともないですから。今日のところは貴方を帰しましょう」
「逃れられないのは確実だから?」
「言うまでもないですね」
法正は余裕そうに鼻で笑った。
物言いは相変わらずだが、普段の様子からは見られないひときわ嬉しそうな悪党を見て、こうまで喜んでもらえるのであれば女冥利に尽きるのではないかと流星は内心幸せに思う。
徳性なく手段を選ばない法正が手間暇を掛け、ようやく対象を手に入れたのだから無理もない。
次第に周囲に知られる間柄となって行くことになったが、当然誰の耳に届いても驚きの知らせとなった。
8
back : next
: log
.