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潮江くんを遠ざけることでなまえを失うことは回避出来たと思っていた。これで先へと進むことが出来る。過去のことはこれで全て精算出来、もう何の心配もいらない。そう思ったら安心して、寝てしまった。ここ最近、ずっと潮江くんのことを考えていてあまり眠れていなかったからか、よく寝れた。身体は異様に痛かったけど。
だけど、なまえに別れを告げられた。あの時のように無理に笑った顔をして。手が震えた。鼓動が異様に速くなる。耳鳴りがする。頭が痛い。息が苦しい。なまえは過去のことは何も覚えていないのに、こうして過去をなぞろうとしている。私の前からまた消えようとしている。
嫌だ、そんなの受け入れられない。だって、私はなまえをこんなにも必要としている。こんなにも愛している。なのに、なまえを失ってしまったら私はまたあの時のように…


「な、何で…」

「私、もう疲れちゃった…」

「…何に」

「雑渡さんが私のことを必要としてくれないことに」

「必要だよ!なまえが必要に決まっているじゃない!」

「必要じゃないです。雑渡さん、私のこと全然期待も信頼もしていないじゃない。私、雑渡さんのことを支えたいと思っていました。だけど、迷惑だったんですね。ごめんなさい」

「迷惑なんて…」

「私はあなたのことを分かりたかった。支えたかった。だけど、雑渡さんは何も私に教えてくれない。それは、受け入れてもらえないと思っているから。…そうなんですよね?」


寂しそうになまえは言った。見ていて痛々しいほどの顔で。
確かに私は過去のことを何も言えなかった。受け入れてもらえないとも思っていた。だけど、言えなかった本当の理由はなまえが私に失望することが怖かったから。何て酷く冷たい男だったのかと思われたくなかった。そして、私がなまえの命を奪ってしまったと知られたくなかった。知られて、なまえを失うことが怖かった。それを信頼していないといえば、そうなのだろう。受け入れてもらえないと思っていたことが期待していなかったと言われればそうなのだろう。だけど、どうしても知られたくなかった。
言ったらなまえを失うかもしれない。だけど、言わなくてもなまえを失う。その二つを天秤に掛けられてしまったら、もう言わざるを得ない。僅かにでも可能性がある方に賭けるしかない。言いたくないけど、知られたくないけど…


「…私にはね、前世の記憶があるんだ」

「はい?雑渡さん、私は真剣に…」

「過去で私は忍者を、なまえはくノ一をしていた。色々とあったけど、私はなまえが好きになった。だけど、私はなまえに好きだとは言えなかった。酷く醜い姿をしていたから…」


言葉にしてはいなかったけど、なまえとは恋仲のような関係だった。一緒に出掛けたり、身体を重ねたりした。幸せだった。だけど、その幸せは彼が現れて揺らいでしまった。


「彼?彼って誰ですか?」

「潮江くんだよ…」

「文次郎?」

「そう、潮江くん。彼はなまえに惹かれてしまった」


楽しそうに話をしていることが、私以外に笑い掛けることが許せなくて私は潮江くんを殺そうとした。いや、なまえに止められなければ確実に殺していた。あの時、毒を仕込んだからどのみち彼は死ぬ。そう思って留まっただけだ。私は潮江くんを助けようとするなまえを無理矢理連れ帰って、縛り上げ、家に監禁した。誰の目にも触れないようにして、どこにも行かないようにした。だけど、なまえは実力はともかく、紛れもなく忍びの心得があった。逃げ出したなまえは薬草を探し回り、潮江くんを救った。その後、私のところに戻ってきてくれたけど、なまえは歩き回った先の村で流行り病に感染してしまった。信じられない速さで病は進行していき、そして、あっという間に死んでしまった。


「私のせいだ。私のせいでなまえは死んだ。私があの時、あんなことをしなければなまえは死なずに済んだのに。あんなつまらない嫉妬をしたせいで私はなまえを殺してしまった…」

「それで、その後どうしたんですか?」

「…そこまで知りたい?」

「ここまで言われたら、気になるじゃないですか」

「…そう。その後はね…後を追って私も死んだよ」

「えっ…自殺したってことですか?」

「死に損ねて結局、部下に殺してもらった形にはなったけどね。なまえと一緒に埋めて欲しいと言い残して私は死んだ」


私が言い終わると、静かさが訪れた。なまえは特に何も言わなかったし、私も何も言えなかった。取り繕うことも出来ないほどの過去だ。もう変えることも戻ることも出来ない。
終わった、と思った。だから話したくなかったんだ。こんなこと言われても私なら受け入れられないし、軽蔑もする。
重い空気の中、なまえが悲しそうに言った。


「雑渡さんが好きだったのは昔の私…ということですか?」

「それは違う!私は今のなまえを愛している!確かに初めは…出会った頃は過去のなまえを追い求めていた。同じところを見つけては喜んでいたし、懐かしんでいた。それは認める」

「じゃあ、いつから私を好きになってくれたんですか?」

「いつだったかな…ごめん、もう覚えていない」

「…そうですか」

「だけど…っ、本当に私は今のなまえを愛してる!何気ない表情や私に臆することなく話をしてくれるところとか、私の内面を知ろうとしてくれるところとか、私が頑張ったことを認めてくれるところとか…挙げればキリがないほど私はなまえを愛している!本当だ、本当に私は過去のなまえではなく、私に笑い掛けてくれるなまえのことが好きなんだ。本当だよ…」


なまえを知れば知るほど過去のなまえとは違っていた。そして、それが愛しいと思うようになった。過去のことなんてあまり思い出さなくなるほど、夢中になってしまった。
私がそう言うと、なまえはまた黙った。どうか思い直してはくれないだろうか。私は別れたくない。失いたくない。


「…黄昏時って明け方のことでしたっけ?」

「違う。夕方のことだよ」

「あぁ、じゃあ今が黄昏時なんですね」


外を見ると、夕陽が沈もうとしていた。あぁ、懐かしいなと思った。過去に潮江くんのところから戻ってきてくれたなまえは私に夕陽を見ながら好きと言ってくれたんだよね。
あの時、どうして私は自分も好きだと言えなかったのだろうか。どうしてなまえの気持ちを疑ってしまったんだろうか。やり直したい。やり直して、二人で生きていきたい。それが出来れば、私は今のなまえともやり直せるのだろうか。
なまえは窓に向かって細い手を伸ばした。あの時のように。


『…まるで掴めそうなほど近く感じますね』

「えっ…」

『あなたなら手に出来るのではありませんか?』

『…いいや、私には女一人手にすることも出来ない』

『私では不満ですか?』

『側にいてくれるとでも言うの?』

『私はあなたが好き。だから、側に置いて下さい』

「…思い出したの?」

「いいえ?でも、子供の頃から何度も夢に見たんです。夕陽を見ながら好きな人とこんな会話をしたことを。私はあの夢に出てきた人が運命の人なんだと、ずっと思っていました。私だけを愛してくれる運命の人がどこかにいるって、そうずっと思っていたんです。ずっと会いたいと思っていましたが…そうですか、あれは雑渡さんだったんですね…」


過去にした会話をなぞったなまえは嬉しそうに、そして優しく笑い掛けてきてくれた。私は思わずなまえを抱き締めた。


「こんな話をしたらなまえがいなくなってしまう気がして怖くて出来なかった。だけど、これだけは信じて欲しい。私はなまえを信頼していないわけではない。愛しているから、だから言えなかっただけだよ。失うことが私は怖かった…」

「雑渡さん。私、雑渡さんのことが好きなんですよ?過去の雑渡さんじゃなくて今の雑渡さんを、です。もう少し私のことを信じて下さいよ?本当の雑渡さんを見せて下さい」

「…ねぇ、なまえ。過去に言いそびれたことがあるんだ」

「何ですか?」

「愛している。私のことを愛してくれてありがとう…」


夕陽はゆっくりと沈んでいった。部屋がどんどん暗くなっていく。だけど、私の心は晴れやかだった。ここが潮江くんの家だということも忘れて何度も何度もなまえとキスをし、そして何度も何度も愛を囁いた。もう二度と違えないように。


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