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「お前ら、まだいたのか!?」
「おかえりー」
「ごめんね、話をしていたら遅くなっちゃって…」
「解決したのか?」
「うん。まぁ、多分…」
「多分てなに。まだ何か思うところがあるの?」
「あの封筒のことです」
「おう。それに関しては俺も聞きたいところだな」
「あぁ、あれねぇ…」
バイトから戻ってきた文次郎と一緒に雑渡さんに詰め寄ると、雑渡さんは考え込んだ素振りを見せたけど、すぐにいつもの調子でのんびりと言った。
「取り敢えずさ、ご飯でも行かない?」
「はぁ?」
「いや、だってもういい時間だし。今回の騒動のお礼とお詫びも兼ねてご馳走してあげるよ。オムライスも食べたし」
「飯って何食わせる気だよ」
「君の望む物でいいよ」
「本当だな?すっげぇ高い物でもいいんだな?」
「いいよ」
文次郎が食べたい物を指定すると雑渡さんは電話を掛け、タクシーを呼んで高そうなご飯屋さんに連れていってくれた。いや、ご飯屋さんなんて言ったら失礼かもしれない。凄く立派な個室に案内され、運ばれてきた料理は信じられないほど高そうだったから。
これが文次郎の言った懐石というやつなのだろうか。料理を運んできてくれた着物を着た女性は雑渡さんに頭を下げた。
「雑渡様、いつもありがとうございます」
「いや、こちらこそ」
「今日は可愛らしいお嬢さんとお坊ちゃんをお連れですね」
「うん。それよりも再来週、頼んだよ」
「かしこまりました。お待ちしております」
雑渡様、と言ったところを見ると雑渡さんはここの常連さんなのだろう。そして、再来週も来る…ということはお仕事関係なのかな。お仕事とはいえ、こんな所でこんな料理を食べている人に私、オムライスなんて作ってしまった。あぁ、どうしよう。なんだか恥ずかしくなってきた。
文次郎は運ばれてきた料理をまじまじと見た後、勢い良く手を合わせてから食べ始めた。雑渡さんも静かに手を合わせた後、箸を進めたから、私も慌てて後に続いた。
「うわ、美味しい…」
「よかったね」
「お前、すげぇな。常連かよ」
「接待でたまに使うだけだよ」
「タソガレドキ社ってのは、接待の格も違うってことか」
「まぁ、場所はまちまちだけどね。四年後、待ってるよ」
「だから、お前の下では働きたくねぇって言ってるだろ」
「可愛がってあげるのに」
「はん!それは給料次第だな!」
「うち、新卒の一般職でも600万は出るよ」
「600万!?」
驚いて思わず大きな声を出してしまった。こんな場所なのに恥ずかしい。だけど、新卒で600万も出る会社はそうそうないことくらい知っているし、雑渡さんはもちろんもっと貰っていることは確実だ。聞くのが怖いし、知りたくない。
なのに、文次郎は雑渡さんに年収を聞いた。直接聞ける文次郎は凄いと思う。そして、サラッと雑渡さんは答えた。
「去年は1300万くらいだったと思う」
「せ…っ」
「さぁ、潮江くん。うちに入りたくなってきたでしょ?」
「か、考えとく…」
「ははは」
雑渡さんは楽しそうに笑った。雑渡さんの年収を聞いた私は動揺して思わずにんじんを落としてしまった。稼いでいるのは分かっていたけど、まさか1300万なんて数字を聞くことになるとは思っていなかったし、もちろんまだ上がっていくことは確実なわけで。何というか、凄い人と付き合っているんだなと改めて思い知らされた。
雑渡さんはそうそう、と言って話を変えた。
「封筒の差出人のことだけど、何となく目星がついている」
「…やっぱり雑渡さんの前の彼女さんですか?」
「前の彼女?何それ」
「違うんですか?」
「違うというか…私、誰とも付き合ったことないけど」
「えっ!」
「あれ、まだ気付いてなかったの?」
雑渡さんは意外そうな顔をした。だって、雑渡さんは私と出掛けたら必ずエスコートしてくれる。映画に行けばブランケットを差し出してくれるし、買い物に行ったら荷物を持ってくれるし、ご飯を食べに行けば必ず広い席に座らせてくれる。女性の扱いに慣れているとしか思えない。私がそう言うと、雑渡さんは首を傾げた。
「好きな子を大切に思って行動しているだけなんだけど」
「それ、普通のことなんですか!?」
「さぁ…潮江くんだって、そのくらいするでしょ?」
「知らねぇよ。彼女なんていたこともないんだから」
「あははは」
「笑うな!」
何というか、二人の雰囲気が今朝とは全然違う。まるで兄弟のような、友達のような感じ。この二人に何があったのかは後で聞いてみることにしようと思い、私は最難関の魚に手をつけ始めた。魚は食べるのが難しい。特に秋刀魚なんて人様にお見せ出来ないレベルだ。だけど、出された魚は骨が取り除かれていたし、簡単に箸で割れた。文次郎に至っては一口で食べていた。雑渡さんは一口大に箸で切り分け、丁寧に食べている。本当に育ちがいいんだなぁと感心した。
「まぁ、この問題は私の手で始末するから大丈夫」
「…始末って何する気なんですか?」
「大丈夫。別に殺したりはしないから」
「当たり前です!」
「お前を怒らせると何するか分かんねぇからなぁ…」
「ま、敵に回さない方が賢明だと私は思うね」
「身を持って知っているから敵には回さねぇ」
文次郎は溜め息を吐いた。御利口な子だ、と雑渡さんは薄く笑っているけど、安心したような顔をしている。
食後に出されたわらび餅は凄く美味しくて、雑渡さんの分までしっかりと食べた。雑渡さんがいつものように黒いカードで支払っていると、文次郎が嫌そうに顔を歪ませた。
「嫌味な奴だな。プラチナカードかよ…」
「何?プラチナカードって」
「金持ちしか持てないカードのことだよ」
「…雑渡さんって凄い人なんだね」
「まぁなぁ。大人だよなぁ」
こういうところでは大人だと思う。だけど、雑渡さんの魅力ってそういうところではない。ちゃんと分かっている。そして、文次郎も多分だけど分かってくれている。こうして雑渡さんのことを分かってくれる人が増えていったらいいのに。そう思った。
雑渡さんは文次郎にタクシー代だと言って一万円札を渡そうとしたけど、ネクタイを貰ったから不要だと言って走って帰って行った。それを雑渡さんは呆れたような顔で見ていた。
「若いね、彼は本当に。あれ、本当に徹夜してるの?」
「雑渡さんも徹夜することがあるんですか?」
「たまにね。もうね、三日は体調悪くなるから」
「あぁ、そういえば、もうすぐ月末ですね」
「嫌なこと思い出させないでくれる?」
「だって、事実じゃないですか。今月もヤバそうですか?」
「あー…なんか気分が悪くなってきた」
お店の個室でタクシーを待たせてもらいながら雑渡さんは溜め息を吐いた。6月ももう半ばだ。一ヶ月なんて本当にあっという間に過ぎていく。そして、7月から私は雑渡さんと一緒の家で生活することになる。あと少しで生活がガラリと変わることになるのだろう。
変化はまだ怖い。だけど、雑渡さんと一緒なら大丈夫。だって、彼は私の運命の人だから。過去のことは何も覚えていないし、別に聞いた限り雑渡さんのせいで死んだとも思えない。だから話を聞いても別に悲しくもならなかったし、がっかりもしなかった。仮に雑渡さんのせいで死んだのだとしても、それで雑渡さんを恨んだりはしないし、するのは間違っていると思う。だって、過去は過去。もう過ぎたことだ。
だけど、その縁があったからこそ私たちは出会うことが出来たのだとしたら、その過去も大切にしたい。そして、今を大切に生きていきたい。雑渡さんの側でずっと。
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