兎の恩返し


任務の帰りに罠にかかっている兎を見つけた。このあたりに住む奴が食べようとしているのだろう。兎ねぇ…私は猪の方が好きだけど。兎なんて食べるところも少ないし、この白い毛皮が血に染まるというのもあまり見好いものではない。
周囲を見渡しても人らしい人は見当たらなかった。ただ、気配が一つ。茂みに誰かがいて、こちらをじっと見ている。そいつがこの兎を食べる気なのかもしれない。
普段の自分なら、決してそんなことはしない。だけど、今日は人を何人か殺めてきた後だったこともあり、この雪のように白い小動物が赤く染まるというのは心地のいいものではなかった。だから私は兎を罠から解放してやった。兎は片足を引き摺りながら逃げていった。その懸命に生きようとする姿を見ていて、何となく自分と重ねる。この痛くて痒い身体を引き摺りながらでも懸命に足掻きながら生きている様は、あの兎のようだと思った。生憎と見た目は対照的なものだが。
気まぐれな行為ではあったが、結果として兎を解放してから一ヶ月後、殿に呼び出された。また戦でもする気かと城に向かうと、殿と共に一人の女がいた。白地に赤い七宝模様の入った着物を纏った女の横に座るよう促され、言われるがままに座る。誰だこの女、と顔を見たが、見知らぬ女だった。歳は20程か。やけに白い肌をしているところを見ると、あまり外には出て過ごしていないのかもしれない。ということは、何処ぞの城で上等の役職に就いている女中あたりだろう。少なくとも、姫君という印象は受けなかった。あまりにも着ている着物が粗末過ぎる。小綺麗にこそしてはいるが、お世辞にも上等の着物とは言えない。そして、似合っていない。白い肌をしているのに、白い着物など何故着ているのか。どこからどう見ても、この女のために仕立てられた着物でないことは明らかだった。ただ、髪質が良いことから、上等の物を口にしているということは分かった。よって、それなりの立場の人間なのであろう。それで結局、殿は私に何の用だ。


「お前に見合いの話が出ている」

「…見合い?私にですか?」

「そうだ。相手はお前の隣にいる娘で、没落した城の姫だ」

「はぁ…」


没落。それなら、まぁ納得も出来る。没落したとはいっても姫は姫。それなりの暮らしをまださせてもらっているのかもしれない。それで、何でそんな元高貴な人間と私が見合いをしなければいけない。それ以前に、見合いという状況ではないだろう。普通、互いにそれなりの格好をした上で対面で行うものだ。にも関わらず、見合い相手は私の隣にいる。おまけに、私は忍び装束を身に纏っている。特別綺麗な物ではない。そろそろ洗濯しなければいけない程度には汚れている物だ。こんな格好で見合いも何もないだろうに。相手に好まれる格好ではない。いや、別にこの女に好かれる必要など微塵もないのだから、何だっていいんだけど。
見合いねぇ…私と夫婦にならなければならない女がいるというのも気の毒な話だ。この女は駒として使われているに過ぎないのだろうから。せめて、普通の見た目の男と生を共にさせてやりたい。見合いの相手が私とはあまりにも気の毒だ。
殿に雑に紹介された女と城の庭を歩く。相変わらず丁寧に手入れされている。だけど、裏に行けば山のような薬草と毒草が植えられていることを私は知っているから、決して穏やかな庭とは思えない。まぁ、この女はそんな事情は知りもしないからか藤棚を見て喜んでいた。紫の花が簾ていて、確かに綺麗なのだろう。私に花を嗜むだけの教養と情緒が備わっていれば、もしかしたらこの女と共に楽しめたかもしれない。


「私には部下が百人いる」

「はい」

「中には若い者もいる。君は若い部下と結婚すべきだ」

「…何故ですか?」

「私は誰とも生活を共にする気がない」


もう、普通に生きることは諦めている。これでも私には昔、婚約者がいた。それなりの関係を築いていたし、小頭に昇進したら夫婦になろうと話もしていた。だけど、その話は全て流れた。私がこんな見た目になったからだ。しかし、別に私はそれを恨んではいない。私が娘の父親ならば破談にしようと考えるだろうし、私が女だったら醜い見た目の男とは結婚しようとは思えないだろう。ましてや、あの時私は動くことさえ出来なかった。普通にこうして任務に就くことが出来ているのは奇跡に近いだろう。そんな先の見えない、将来性もない男と生活を共にするのは苦痛だろうし、私としても相手が気の毒だから気の許した関係を築くことは困難だと思う。よって、私は誰とも生活を共にする気はない。
政略結婚というのであれば、相手は私である必要がない。タソガレドキ城と繋がりが持てればいいだけだろう。ならば若く、将来性のある男の方がずっとこの女にとってもいいだろう。そして、いずれ子を成してもらい、その子を忍びとして育てる。いつものことだ。さて、誰にこの女を当てがうか…と考えていると、女は泣き出した。成人している女がこうも人前で泣くのだから、やはりまだ幼く、甘やかされて育てられたのだろうことが想像される。こんなので忍びの妻など務まるのだろうか。別部署の男を紹介すべきかもしれない。


「私はあなたをお慕いしております」

「は?私を?」

「私は以前、あなたに助けて頂いた者です」

「生憎だが、私は誰かれ構わず人を助ける程のお人好しではないし、残念ながら身にも覚えがない。人違いだろう」

「あなたに似た方が他にいらっしゃるんですか?」

「…いや、いないだろうけど」


いたら恐ろしいし、気の毒だ。そのくらいこの身体は醜い上に時として痛みを伴う。炎に焼かれた苦痛を思い出しては精神が蝕まれるし、身体が異様に熱くなる。
何にしても、この日を境にこの物好きな女はこうして私の婚約者となった。私が恐ろしくはないのかと問えば、むしろ優しい人だと笑う変わり者の名はなまえといった。殿に勧められた縁談が故に断るわけにもいかず、かといってこの女をそう簡単に受け入れることも出来ない私は婚約とは名ばかりの関係を保った。手出しはしないけど、特別拒みもせず、共に出掛けてみたり、時に二人で食事を摂ったりした。なまえは知れば知るほど変わった女だった。熊に遭遇した時に「大きくて可愛い」と言った時には流石に箱入りにも程があるだろうと呆れたし、野に咲く花が美しいと毒草を手にして手が爛れた時には無知にも程があると恐怖さえ感じた。何より、私と過ごしているというのにいつも楽しそうに笑っていることに妙な気分になった。なまえは私を微塵も恐れてはいなかった。頭から血を被って帰ってきた時にでさえ、私の身体を気遣っていた。それは無知だからなのか、はたまた怖いもの知らずだからなのかは分からない。ただ、共に過ごしていて調子の狂う女だと思った。こんな奇妙な女とは関わったことがない。これまで体験したことのないような、そんな不思議な気分にさせられる。なまえはそんな風変わりな女だった。


「おや。珍しい物をお待ちですね、組頭」

「あぁ。なまえにと思ってね」

「それは喜ばしい。あなたにもまだ人の心がありましたか」

「…別に深い意味などない」

「左様で。それでも、彼女は喜ばれることでしょうね」


任務の帰りに桔梗を見つけた私は一輪手にした。私に花など似合わないからか、部下に揶揄われた。周囲にはなまえと良好な関係を築いていると思われているのだろう。だが、私の覚悟はまだ出来ていない。なまえと祝言を挙げようものなら、私はこの世に縛り付けられることになる。当然のことながら、妻を愛さねばならないし、妻からもまた愛されなければならない。それが私には怖かった。心を許した相手が居なくなるというのはなかなかに堪える。その恐怖を享受した上で誰かと生活を共にすることは一度婚約者を失ったことのある私にとってとてつもない恐怖だった。出来ることならば二度と経験したくないし、時たま痛みで重くなる身体を生涯抱えながら生を全うしなければならなくなることに耐えられる自信が私にはなかった。独り身ならいつ死んでもいい、いつでも死のうと思えば死ぬことが出来る。この気楽さがなくなることは私にとって苦痛以外の何ものでもなかった。


「わぁ、私にくださるのですか?」

「他に誰がいる」

「ありがとうございます。嬉しい」


それに、この笑顔を守り切れる自信が私にはなかった。だから私には家庭を築くことが出来ない。一人で気楽に生きる方がずっと楽だ。この楽さを知ってしまった上で人を受け入れるだけの余裕など私にはない。それに、なまえはよくも悪くも心の綺麗な女だった。私などが穢してもいいような、つまらない人間ではない。もっとちゃんとした男と幸せになるべきだ。なまえは私にはあまりにも身に余る。
時はあっという間に流れていった。そしてなまえと婚約して一年ほど経った頃、私は殿に呼び出された。つい先日も戦の相談をされたばかりだというのに、また新たな戦を仕掛ける気なのだろうかと思いながら木々を伝って城へと向かう。途中、藤棚が目に入った。見頃となっている紫の花を見て、なまえにも見せてやりたいと思った。きっと喜ぶことだろう。


「殿。参りました、雑渡です」

「うむ。お前に聞きたいことがあるのだ」

「は。どのようなことでしょう」

「雑渡はあの娘にまだ手は出していないと聞く。そこで提案なのだが、あの娘を他所の城に送ろうかと思うのだが」

「…なまえをですか?どちらに?」

「ドクタケだ。腐ってもあれは元姫だ。いい材料となろう」

「つまり、交渉の品として使うおつもりですか?」

「そうだ。婚約して一年も経つというのに、手を出していないということはお前もあの娘を気に入っているわけではないのだろう?ならば丁度いいと思ってな。手駒として遣わす」

「は…」


女の扱いなど、このようなものだ。それでも、役に立つというのならば、使うべきだろう。それでドクタケと良好な関係を築くことが出来るのであれば、是非とも使うべきだ。
私は二つ返事を殿にしてから帰宅した。家に帰るとなまえがいる。そんなことが当たり前となってしまっていた。だが、その生活ももうすぐ終わりを迎える。この子は政治の駒としてドクタケに送られ、生涯を終えることだろう。幸せになどなれはしないことは分かり切っている。なまえは所詮はそんな人生しか送ることの出来ない運命だったのだ。哀れだが、致し方がない。恨むのであれば没落したとはいえ、姫として生まれてきてしまったことを恨むしかない。運のない子だ。


「おかえりなさいませ。戦の相談でしたか?」

「…なまえ。お前の嫁ぎ先が決まった」

「えっ…」

「お前はドクタケの殿に嫁ぐこととなる。側室だろうがね」

「ま、待って下さい!私はあなたのことが…っ」

「もう決まったことだ。日は改めて通達されるだろう」

「そんな…嫌です!私は雑渡様をお慕いしております。どうか私を雑渡様の妻にして下さい。私が身を捧げる相手はあなた以外は考えられません。私をあなたのものにして下さい!」


そう言ってなまえは私に縋ってきた。木野小次郎か私か選べと言われれば、どちらが幸せになれるのだろうか。少なくとも、ドクタケに嫁げばこんな粗末な家で粗末な食事を摂ることはないだろう。艶のあった髪も、美しかった手も今では見る影もない状態となっている。女としての幸せを取るのならば、側室であろうとも城に嫁ぐべきだ。
なまえは男を知らない。それはなまえの価値を上げる材料となる。だから、手を出していないことは幸いだった。
綺麗とは言い難い自分の指で唇をなぞる。初めて会った時は随分と白い女だったはずなのに、私ほどではないにしろ、日に焼けている。こんなことになるのであれば、炊事などさせなければよかった。いや、知り合いたくはなかった。どうせ失うのであれば、なまえとは関わり合いたくはなかった。


「恋愛感情かはともかく、私はお前を可愛いと思っている。そしてまた、幸せになってもらいたいとも思っている」

「私の幸せには雑渡様が必要です!」

「いいや。なまえは他の男に幸せにしてもらうべきだ」

「何故です!?」

「私が醜いからだ。忍びという職に私は誇りを持っている。しかし、決して綺麗とは言えない職種だ。おまけに、私はこの見た目だ。なまえと共に生きるには私はあまりに醜い」

「そんな…そんなことはありません!」

「そう。それでも私はなまえを抱くとこどころか、抱き締めることも出来はしない。だから、これは内密にしてくれ」


そっとなまえの唇を喰む。水分のない、カサついた私の唇とは異なり、なまえの唇は予想以上に柔らかかった。接吻などしたのは久方ぶりのことで、女の柔らかさを再認識する。
なまえは縋るように私に抱きついて来た。だが、この子は私が抱き返してもいいような女ではない。じきに私などでは会話をすることさえ難しくなるような、高貴な女となるのだから。だから、この接吻で全て終わりにする。それが私の出した答えだった。そもそも、なまえをドクタケに送ることは決定事項だ。私の意思など関係ない。当然、なまえの意思も。政治とはそういうものだ。当人の意思など尊重されない。
なまえがドクタケに送られる日が決定した。当日、着飾ったなまえを籠に乗せ、その籠を護る大役を私が請け負うこととなった。やはり、なまえは腐っても姫君だった。多数の髪飾りも、上等の着物もなまえによく似合っていたから。やはりこの娘は私には身分不相応な相手だったのだと知った。
籠に乗る時、なまえは泣いていた。だから、そう泣くものではないと笑い掛けてやる。これから幸せになるのだから。


「お別れだ、なまえ。幸せになりなさい」

「私は…っ」

「さぁ、早く乗りなさい」


泣くなまえを乗せた籠がゆっくりと動き出し、後から部下を連れてドクタケまで歩く。仰々しい行列は山を越え、谷を越え、そしてまた山を越えた。途中、いくつか花が見え、なまえに贈りたい気持ちになったがやめた。私はもうなまえとはそんな関係ではないから。
ふ、と私が笑うと、部下の一人が気まずそうに尋ねてきた。


「…組頭、本当によろしいのですか?」

「なにが」

「なまえ様をドクタケに送ることです」

「いいも何も私となまえは元よりそのような関係ではない。あれは私のような男の側にいるにはあまりにも綺麗過ぎる」

「しかし…」

「くどい。いいから任務に集中なさい」


これ以上、なまえの話題を口にはしたくなかった。決意が揺らいでしまうから。それでも、後悔はしていない。これでよかったと自然と思えている。ほんの少しだけ胸が痛むが、時間の経過でそんなものは解決することが出来る。
ドクタケ城が遠くに見え始めた時、籠が止まった。何事かと覗けば、一羽の兎が籠を持っていた男に噛み付いている。これは珍しいことだ。兎は警戒心の強い動物だ。こちらから手を出さない限りは襲ってくることはまずないというのに。なまえがその昔に着ていた着物のように白い兎の片足には傷があった。その傷を見て、何となく昔、気まぐれで助けた兎なのかもしれないと思った。これも何かの縁だろう、斬られようとしていた兎を引き離し、野に放ってやることにした。
兎を私が抱えると、籠の中からなまえの笑い声が聞こえた。


「何が可笑しい」

「あなたはあの時も兎を助けていましたね」

「あの時?」

「お気付きになりませんでしたか?茂みに私がいたことを」

「あぁ…」


そういえば、誰かが茂みからじっと見ていた。面倒だったから特別気にもとめなかったが。では、あの茂みにいたのがなまえだったということか。だとするなら、聞きたいことがある。何故、あんな所にいたのか。それに、なまえは初めて会った時に私に助けられたことがあると言った。それも身に覚えが全くない。これまで特に追求することがなかった疑問を私は最後だからとなまえにぶつけた。


「タソガレドキ城に行く途中、罠にかかった兎を見つけました。だけど、私では助けてあげられなかった。人が来たので私は茂みに隠れました。そして、あなたは兎を助けた。私はあの時、あなたの優しさに触れ、そして、心惹かれました」

「…あんなもの、ただの気まぐれだ」

「いいえ、あなたは優しい方です。現に、今も兎を助けた」

「これも、ただの気まぐれに過ぎない」

「気まぐれでもいい。私はあなたに愛されたかった。あなたの心に触れたかった。私は雑渡様のお側にいたかった…っ」


なまえは泣いたが、私は特に何も言わなかった。下手に期待をさせるのは酷だから、何も言うべきではないと思ったからだ。途中、野に兎を放し、ドクタケ城へと向かった。歩きながら、どうすべきだったのか思い悩む。そして、これからどうするのが正解なのか考える。考え事をしていると、あっという間にドクタケ城に着いた。
門番が門を開けて堂々と入るドクタケ城はタソガレドキ城とそう変わらない大きさだった。だが、庭の手入れもされておらず、花らしい花は見当たらない。我が殿の教養の良さが思わず誇らしくなる。おまけに庭先であるにも関わらず、ドクタケ城の忍者共が訓練していた。どうやら忍ぶ気など微塵もないらしい。実に嘆かわしくもあり、武力こそ高いが所詮は金しか持っていない城であることがありありと分かる。
籠からなまえを下ろして高座に向かう際に私は部下に矢羽でこの後の指示を出した。部下たちは特に驚きもせず、心なしか嬉しそうにしていたから、気を引き締めるよう小突く。


「おぉ!これはまた別嬪な女子だ」

「ひぇ…っ」

「ほら、名乗りなさい」

「は、初めまして。なまえと申します…」

「ほぉ。歳は幾つになる」

「じ、18です…」

「そうか、ならば子もたくさん産めよう」


なまえは怯んでいたが、正直、なまえの年齢を初めて知った私は驚きを隠せなかった。まだ幼いところがあると思ってはいたが、まさか10代だったとは。つまり、私の半分しか生きていない。そんな若い女がよくも私を慕っているなどと口に出来たものだ。案外、肝の据わった女なのかもしれない。
さて。これから私が行うことは茶番だ。おまけに、ドクタケ城と仲違いをするきっかけとなってしまうかもしれない。帰れば殿に叱咤される可能性だってあるし、運が悪ければ打首になるかもしれない。そもそも、何もかも上手くいくとも限らない。それでも心を決めてしまったのだ、やるしかない。あぁ、これだから嫌なんだ。女と関わることも、女に心を許すことも。こんなやり取りをすることになるとは想定外だ。


「子を成すというお話、大変結構なのですが、実は一つ、私からなまえに関してお伝えせねばならないことがあります」

「申してみよ」

「この女は私と婚約をしていましたので、私の手つきです」

「なに…?」

「子が産まれたとして、誰の子なのやら分かりませんねぇ」

「何だと!黄昏はそんな女を送ってきたのか!?」

「ええ。ですので、なまえは返して頂きたく存じます」

「ならん!お前たち、こいつらを殺せ!」

「だって。さて、用意はいいね、陣内、陣左」

「は。ドクタケに目に物を見せてやりましょう」

「ふ…さぁ、始めようか」


なまえを左腕に抱き、刀を抜く。我々の目的は戦いに勝つことではない。この場からなまえを奪還して逃げることだ。忍ばずに訓練しているドクタケ忍者とは格が違う。
相手は陣左が投げた焙烙火矢の煙と熱気で慌て狼狽えた。その隙に部屋から脱出し、階段下で待ち構えていた武将を陣内が斬り付け、まきびしを撒き散らして走った。城からの脱出は想像よりも遥かに楽だった。私が自ら誰かを傷付ける必要がなかったくらいなのだから。とはいえ、この二人が私に気を使い、汚れ仕事を請け負ってくれたことくらい分かっている。悪い、と二人に礼を言いながら刀を鞘に納めると、二人は頭を下げてから消えた。どこまでも気の使える奴らだ。


「さて。無茶をして悪かったね、なまえ」

「い、いえ…」

「少し話をしようか。おいで」


なまえの手を取って歩き出す。人生とは想定外のことが多いものだ。火傷を負ったことも、婚約者を失ったことも、組頭に昇進したことも、何もかもが想定外だ。そして、この歳になって若い女と関わることとなり、婚約者とは名ばかりの関係性を保つはずだったというのに、こんな大事になるような真似をしてまで奪い返すなんて想定外どころの話ではない。下手をすれば私は職を失った挙句、生涯に渡ってタソガレドキ城から追われ続けることになるだろう。それでも、殿からなまえが嫁ぐという話を持ち掛けられた時には覚悟が定まらなかったのだ。なのに、タソガレドキ城からドクタケ城までの道中があまりにも長くて、嫌でも考え事をする時間を得てしまい、そして、ドクタケ城が近付くにつれ自分の足があまりにも重くなったことで私は覚悟をせざるを得なくなった。
私はもう二度と誰かを好きになる気はなかった。色んな感情が芽生え、それに否応なしに振り回されることが煩わしかった。何より、誰も私になど今さら言い寄っても来ないと思っていたし、相手を思うのであれば私から近付くべきではないと思っていた。若く、将来性のある奴らと自分は違うのだからと火傷を負った日からずっと自分に言い聞かせ続けた。だが、人を好きになるのは理屈ではなかったようだ。本当に何気ない日々の中で気付けば私の心はなまえの手により落ちていた。この子となら、生活を共にしたいとさえ思うほどに。
途中、ツツジが咲いているのが目に入った。懐かしくなり、一輪摘んで蜜を吸うと、なまえは驚いたような顔をした。


「お花を召し上がるのですか?」

「まさか。これは花の蜜を吸っているのだ。幼少期によく吸ったものだが…箱入りのなまえにはそんな経験などないか」

「う…ど、どのようなお味なのです?」

「ふむ…」


私はなまえの腰を抱き、口付けた。舌を絡め、花の蜜の味などとっくにしなくなったというのに絡め続け、貪ると言っても過言ではないほど深く吸った。もういい歳だというのに、自分でも信じられないくらいに高揚していることに気付き、つくづく自分は欲深い生き物だと再認識する。命が助かり、昇進し、部下にも恵まれているというのに、私は更に女まで欲してしまうとは。おまけにこんなにも若く、愛らしい上に高貴な身分だった女を。我ながら恐ろしいほど欲深い。
なまえの頭から髪飾りを抜いていく。とんでもない量の髪飾りが挿されていて、重くはないのだろうかと思う。一つ抜くごとに髪が風で舞い、重苦しい責務からまるで解放されていくかのように見え、その様がとても美しく、そして、嬉しくもあった。着飾った見知らぬ高貴な姫君から、私がよく知る、少し風変わりな婚約者に戻っていったから。


「私と夫婦になるのなら、こんな物は必要ない」

「…雑渡様は私と夫婦になってくださるのですか?」

「さぁ。それはなまえ次第だろう」

「私次第…とは?」

「私の妻になるということは、こんな贅沢は出来ないということだ。もう、こんな質のいい着物など身には纏えない」


腰紐を解き、上質な着物を脱がせる。初夏だというのに暑くはないのだろうか。二枚目の着物も脱がせ、三枚目の着物に手を掛けたあたりで流石になまえは動揺した。
こんな明るいうちに、こんな外で脱がせるのは流石の風変わりな女であっても抵抗があるようだ。しかし、全く失礼な話だ。別にこんな所では流石の私でも抱いたりはしない。とはいえ、城に戻る前に嘘を誠にしておく必要があるにはある。殿が用意したとはいえ、こんな悪趣味な着物などいつまでも着せておくのも癪な話だし、街で調達するついでに宿に寄るのが最良か。そんなことを考えながらなまえの着物を整えていると、なまえは私の手を握った。その赤く染まった頬を見て、この場で事に及ぶことを受け入れていることを知る。
本当に人生とは想定外のことが多い。そして、それを拒むこともせずに誘いに乗っている自分の意思の弱さが恨めしい。首筋に唇を這わせると香のにおいがした。着物に焚き付けられていたのだろう。甘い、花のような香りが木野小次郎を誘うために用意されているのだと分かり、何となく不快に思った私は気が逸れた。他の男のために整えられた環境で好いた女を抱くというのはどうにも面白くない。
つまらない思考から私はなまえを抱くことを諦め、街で着物と簪を見繕ってタソガレドキ領地へと戻った。未だ清い関係ではあるが、致し方がなかろう。別に身体の関係があろうがなかろうが、口にしなければ分からぬことだ。それよりもどう殿の許しを得るべきなのかの方が肝要だ。最悪の場合にはなまえと駆け落ちをして生涯身を隠しながら生きるしかなくなるかもしれない。まぁ、それはそれでいいか。それこそ、想定外の連続ではあるが、こんな人生も悪くなかろう。
だが、殿との謁見でそれは私の杞憂であることに気付いた。


「殿。この娘を私に頂けないでしょうか?」

「お前、要らないと言わなかったか?」

「別に私はそこまでは申しておりません」

「で?ようやく決心がついたのか」

「やはり、殿は初めからお分かりになっていたのですね」


このお方は初めから私がなまえに惚れていることも、覚悟が出来ていないことにも気付いていた。初めからなまえをドクタケにやる気など微塵もなく、私がこうしてなまえを連れ帰って来ることを分かっておられたようだ。


「そちらは私の妻に頂いもよろしいのですか?」

「祝言は早く挙げろ。これから忙しくなるからな」

「そうします。しかし、新婚だというのに家を長期間開けるのは避けたいので、奴らとは早めにケリをつけましょう」

「ほぉ。お前も言うようになったではないか」


他の男が用意したというのは気に入らないが、上座に掛けられていた上等の白無垢を手に取る。人の祝言に参列することはあっても、まさかこの私が挙げることになるとは。
それから程なくして私はなまえと祝言を挙げた。暑いくらいの陽気だというのに、なまえは汗一つかいておらず、女の身体とはどうなっているのかと驚かされた。私はというと、黒紋付なんて慣れない物を纏っているが故に動き辛く、いま敵襲が起きたらどうしようかとさえ思ってしまった。染み付いた防衛本能というのはそう簡単には消えないもののようだ。


「雑渡様。いつから任務に行かれるのです?」

「明後日だ。恐らく一月は戻って来れない」

「そうですか…」

「それでもなまえは私を待っていてくれるだろうか」

「はい。私は家でご武運をお祈りしています」


嬉しそうに微笑むなまえと参列者を見送り、奥の小部屋に入る。決して広いわけでもなければ、決して綺麗なわけでもない、ただの部屋を私は寝室として使用していた。家の構造から考え、この部屋が一番安全だからだ。私は残念ながら忍びの里を取り纏める立場にあるから、あらゆる状況を考慮して過ごす必要があった。それをこれからはなまえにも強いなければならない。なまえのような箱入り娘に果たして耐えられるだろうか。家を空けることの多い私がなまえにしてやれることなど少ない。この子は本当に私などを選んでよかったのだろうか。
私がつまらぬ迷いをしていると、庭先から草が揺れる音がした。庭に出てみると、一羽の兎がこちらを覗いている。


「わぁ、雪見。来てくれたの?」

「雪見?」

「はい。白いから雪見」

「ほぉ…」


雪見と呼ばれた兎はなまえによく懐いていた。ここ最近、どうやら私は兎に縁があるようだ。兎に手を伸ばすと私にも擦り寄ってきた。随分と人に慣れているようだ。


「私の不在時、なまえのことを頼めるだろうか」


兎は当然返事などしない。だが、私をじっと見据えてきた。赤い瞳が私の迷いなど全てお見通しだと言わんばかりに射抜いてくる。そうだね、この状況下で迷うなど愚かなことだ。もう私は迷うよりも進むべきだ。
なまえを抱えて寝室へと戻る。覚悟はもう出来ていた。


「なまえ。私はもう若くない。見た目もこんなだ」

「はい」

「もしかしたら戦で片腕を失って帰るかもしれない。それでもなまえは私から離れず、ずっと側にいてくれるだろうか」

「はい、勿論。私はあなたをずっとお慕いしております」

「仕方ない。そこまで言うのならば、私はお前のために生きてやろう。その代わり、なまえの全てを私が貰い受けたい」


そっと床になまえを押し倒し、身体を重ねる。婚約してから一年もの月日が経過してしまったが、ようやく私たちは正式な夫婦となった。小さななまえの身体は私の腕にいとも簡単に納まり、狭い布団の中で身体を寄せ合って朝を迎える。ようやく人生の伴侶を得られたというのに明日には戦に赴かなければならないことが気怠くて、嫌で嫌で仕方がなかった。
せめて今日くらいはなまえと二人寄り添って過ごしたいものだと抱き締めていたなまえに口付けようと横を向くと、白い塊がそれを阻んだ。本当に想定外のことが次々と起こるものだ。だからこそ人生とは楽しいものなのだろう。
仕方がない、と私は寝直すことにした。どうせ今日は一日休みだ。明日から忙しくなることだし、このまま今日は床でのんびりと過ごすのも悪くはない。雪見ごと私は抱き直し、この穏やかな日常が永遠に続くよう祈りながら目を閉じた。


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