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非常に運の悪い事態が発生した。月末処理と体調不良が同時にきてしまった。朝はまだよかった。喉と頭が痛い程度だったから。だけど、これはまずい。視界がぐらぐらと揺れている。パソコンの画面もよく見えない。


「課長。もう今日はお帰りになって下さい」

「何言ってるの、帰れる状況じゃないでしょ…」


通常業務さえ終わるか分からない状況下で同時に月末処理を進めないといけない。私がいなければ終わるはずがない。今は猫の手だって借りたい状況なのだから。
平衡感覚がない。自分は今、真っ直ぐ座ることが出来ているのだろうか。帳簿を捲っていると幻覚が見えた。


「もう…帰りますよ」

「あー、なまえが見えるー…」

「これ、かなり熱がありそうですね」

「ええ。タクシーを呼びますので、お願いできますか」

「分かりました。あ、その前に一ついいですか?」


なまえが陣内と何か話をしている光景が見える。あ、何か突拍子もないことを陣内に言ったんだな。凄く驚いた顔をしている。そうそう、なまえはたまーに突拍子もないことを言ったり、やったりする子なんだよね。若いからなのか、それともなまえの性格からなのか。だけど不思議と私は不快でもなければ、逆にその発想に救われている。筋は通ってない主張かもしれないけど、無垢が故に案外うまくいくことが多いと言うか。本当に不思議な子なんだよねぇ…
ぼんやりとそんなことを考えていたら、幻覚は消えてしまった。会社でなまえが見えるようになるなんて、いい幻覚だった。これで頑張れるような気がする。そうだ、頑張らないといけない。頑張らないと終わらないのだから。
頭が重くて支えていることがつらい。今月は何件新規があったんだったかな…あぁ、駄目だ。頭が働いていない。
消えたはずの幻覚はしばらくして戻ってきた。社長と共に。


「あぁ、これはもう駄目だな」

「社長…」

「お願い出来ますか?」

「うむ…特別だ、月末の報告を一週間延ばしてやろう。だからお前はもうこの子と共に帰って三日程休め。帰って寝ろ」

「…はい?今、何と…?」


わぁっと歓声がわいた。えっ、月末処理の締め日が一週間延びたと聞こえたけど、これは幻聴か?幻聴だろうな、社長がそんな情けを簡単に与えるとは思えないから。
なまえに促され、陣内と陣左に腕を掴まれて立たされた。そのままエントランスへ連れて行かれるとタクシーが停まっていた。無理矢理押し込まれるに近い形で乗せられる。どこまでが現実でどこまでが妄想なのかよく分からない。
ぼんやりと外を眺めていると、家に向かって走っているわけではないことに気付いた。遠くに禍々しい建物が見える。


「…あの、これはどこに向かっているの?」

「病院に決まってるでしょ!」

「やっぱり!大丈夫、私は健康だよ!」

「何言ってるんですか!?そんな熱い身体で!」

「大丈夫だって!私は平熱が高…げほっ、ごほ…」

「大人しくして下さい!」


なまえは幻覚でもなければ、聞こえてくる声は幻聴でもないことが病院を見て思い知らされた。まずい、このままだと連れて行かれる。それだけは絶対に避けたい。
私はタクシーを降りたくないとごねようとした。だけど、身体に力が入らなかった私はなまえに引っ張られると簡単に車から降ろされてしまった。ずるずると引っ張られる形で内科に連れていかれ、促されるがままに体温を測られる。


「40.5℃!?」

「あぁ…」

「ど、どうして出勤したんですか!?」

「だって、朝は平気だったから…」

「じゃあ、どうして早退しないんですか!?」

「月末だったし…」

「雑渡さん!ちゃんと自分を大切にして!」


分かってるよ。分かってるけど、無理だよ。だって、月末なんだから。月末に私が休んだら業務が滞る。それに、部下が心配で休んでなどいられない。私の分の仕事を誰がこなすというのだ。みんな限界に近い状態で働いているというのに、休めるはずがない。這ってでも出勤するのは当然のことだと思っている。別にそれを誰かに強要はしないけど、少なくとも私は部下に迷惑がかかるから月末には休みたくない。
と、伝えるだけの元気がないため、短く返事をするに留まった。頭が割れそうなほど痛い。体温を聞いてより体調が悪化した気がする。なに、40.5℃って。風呂みたいな温度だ。
名前が呼ばれた。ビクっと身体が震える。来た。遂に来てしまった。嫌だ、立ちたくない。怖い。入りたくない。


「ほら、行きますよ」

「…嫌だ」

「嫌ってなんですか。ほら、立つ」


ぐいぐいと引っ張られて医者の診察を受ける。早めのインフルエンザの可能性を疑われ、これから何をされるのか分かった私は逃げ出そうと立ち上がろうとした。背後から看護師に押さえつけられ、立とうにも立てず、おまけになまえは外に出されてしまった。
じりじりと白衣を着た男が近寄ってくる。


「い、嫌だ…っ」

「はい、動かないで。あぁ、あと血液検査もしておきましょうか。炎症反応と白血球を見たいので。はい、いきますよ」


そこから先のことはあまりよく覚えていない。目が覚めたら私は小さなベッドに横たわっていたし、なまえは呆れたような顔をして私を見ていたから。身体は随分と楽になったような気がして、手で額を触ろうと腕を曲げると細い管が一緒についてきた。
ぎょっとして腕を見ると身に覚えのない異物が入っている。


「えっ。何これ」

「点滴です。効きますね、点滴って。熱、下がりましたよ」

「点滴なんてされた覚えないんだけど?」

「だって雑渡さん、倒れちゃったから」


呆れたようになまえは溜め息を吐いた。倒れた。私が?
あぁ、やってしまったなと後悔する。なまえにまた知られなくてもいいことを知られてしまった。といっても、倒れたのは私の意志とは関係のないものであり、どうしようもない。普段は倒れたりはしないのだから。全力で逃げようと試みはするけど。そして、まだ成功したことは一度もないけど。


「雑渡さん、病院が怖いんですね?」

「…うん」

「子供じゃないんだから」

「だ、だって…注射とか怖いじゃない。検査とか都合のいいことを言って人に針を刺すことが合法とは絶対におかしいよ」

「おかしいのは雑渡さんです」

「それに、ほら。病院って雰囲気が悪いじゃない。全体的に白くてさ。においだって独特というか…ね、怖くない?」

「はいはい。点滴が終わったら帰りましょうね」


なまえは呆れ果てた顔をしながら私の頭を撫でた。どうしよう、子供のようだと思われてしまった。だけど、流石に病院嫌いを克服することは無理だ。こればかりは不可能だ。
待ち時間は長いし、人は多いし、出される薬は苦い。おまけに処置だと言って何をされるか分からない。注射は痛いし、ましてや点滴なんて長時間拘束される上に針が何時間も血管に入れられていて普通に痛い。私は義務付けられている健康診断に行くだけで血圧が上がるくらい病院と相性が悪い。
いや、私が病院を嫌いな理由なんて今はどうだっていい。


「その、ごめん。えっと、子供みたく騒いで…」

「いえいえ。私に子供がいたらこんな感じなのかなと思った程度ですので、お気になさらなくても大丈夫ですよ」

「それ、怒ってるよね、普通に」

「いいえ。雑渡さんらしいとは思いましたけど」

「…なまえの中で私ってどんな男なの」


思わず溜め息を吐く。最近、弱いところばかり露呈している気がする。もうなまえに対して虚勢を張る気はないが、一人の男としてこれはいかがなものか。情けない。
情けないといえば、仕事を放り出してきてしまった。こんな忙しい時に倒れるなんて情けないというか、不甲斐ないというか。残してきた部下たちには申し訳ないことをしてしまった。なまえを見る限り、このまま仕事に戻らせてはもらえなさそうだ。あいつらは大丈夫だろうか。ただでさえ忙しい月末だ。私のように倒れたりしなければいいが。
後で電話をしようと考えていると点滴が終わった。針を抜いて帰される。会計後になまえが抱えている薬の量を見てうんざりとした。どうせ苦い粉薬があるに決まっている。仕事の他にも心配ごとが発生した私は溜め息しか出なかった。


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