雑渡さんと一緒! 105
「おめでとうございます」
「お世話になりました。本当にありがとうございました」
「お大事にして下さい。あと、定期検診は忘れずに」
「はい。また伺います」
「外来に、ね。もう二度と病棟には来たら駄目だからね?」
「あは。気を付けます」
長い入院生活がようやく終わった。12月も終わりに差し掛かっている。雑渡さんは凄く忙しそうだったけど、わざわざ有給を取ってくれた。入院生活でよくしてくれていた看護師さんに頭を下げてから、私は雑渡さんの車に乗り込んだ。
さて、と雑渡さんはまず私をカフェに連れていってくれた。雑渡さんが頑張って私のために契約を結んでくれた、お洒落なカフェ。そこのシフォンケーキが美味しいと前情報があったから、話を聞いてからずっと楽しみにしていた。そして、運ばれてきた噂のシフォンケーキはとてもいい香りがした。
「うわ、凄い甘ったるいにおい…」
「いいにおいです」
「あぁ、そう…私は無理」
「雑渡さん、ほんの少しの甘味も駄目なんですか?」
「無理。絶対に吐く」
「そこまで…」
「そもそも、生クリームとか見たくもないレベルだから」
雑渡さんは嫌そうな顔をしてシフォンケーキに添えてあるクリームを見た。本当に嫌そうな顔をしているから、甘い物なんて絶対に口にはしたくないのだろう。勿体無い。
一口シフォンケーキを頬張ると、ふわふわで、優しい甘さを感じ、溶けるように消えていった。予想以上に美味しい。
「幸せです…」
「そんな顔をしているね」
「はい、どうぞ?」
「だから、要らないって」
「大丈夫。そんなに甘くないですから」
「嘘だね。凄いにおいがしているもの」
「いいから。はい、あーん」
シフォンケーキを刺したフォークを雑渡さんに向けると、雑渡さんは意外そうな顔をした後、葛藤していた。食べたくないけど、食べたいという顔をしている。雑渡さんに食べさせようとしたのはこれが初めてだから、逃したくはないんだろう。だけど、シフォンケーキは食べたくないという葛藤。
しばらく悩んだ後、雑渡さんは恐る恐るシフォンケーキを口にした。私が知る限り、雑渡さんが初めて口にしたスイーツだ。私がわくわくとしながら感想を待っていると、雑渡さんは嫌そうな顔をして珈琲でシフォンケーキを流し込んだ。
「そんなに甘くないでしょ?」
「…甘くはないけど、美味しくもない」
「だから、クリームを付けるんですよ」
「そんな物を口にしたら寝込むから要らない」
「美味しいのになぁ…」
残念ながら雑渡さんにスイーツの美味しさを分かってもらうことに失敗した私はクリームをたっぷりと付けてから頬張った。こんなにも美味しい物が嫌いなんて損だと思うけど。
食べ終わってカフェを出ると家具屋さんに連れてこられた。
「何を見るんですか?」
「テーブル」
「家にあるじゃないですか」
「…まぁ、いいじゃない。うん」
気まずそうに雑渡さんはテーブルを見始めた。家にあるテーブルで十分だと思うけど、何か不都合なことでもあるのだろうか。多少小さいかなと思うけど、別に二人で使っても十分な大きさの木製のテーブルに私は特に不満はないけど。
「あ、これ可愛い。これはどうですか?」
「木製は駄目。ガラス製にしよう」
「…さては、何かありましたね?」
「………」
「まさか、煙草で焦がした、なんて…」
「…ごめんなさい」
「えっ、本当に!?テーブルを焦がしたんですか!?」
「以後、気をつけるので許して下さい…」
どんどん声が小さくなっていく雑渡さんを思わず睨む。テーブルを煙草で焦がしたなんて信じられない。私がいないと生活もままならないのではないかと思ってはいたけど、まさかここまでとは思っていなかった。途端に家に帰るのが怖くなる。あの家は今、どれほど荒れているのだろうか。
私が静かに怒りながらテーブルを決めて、ランチをしにお洒落なフレンチ料理店に連れてこられた。ここもタソガレドキ社の持ち物なのかと聞くと、雑渡さんは首を横に振った。
「今、狙っている店の一つ」
「へぇ…」
「それなりに美味しいらしい」
「はぁ」
「…なので、許して下さい」
「何が"なので"なのか分かりかねますけど?」
「あぁ、ほら。そういう怒り方はしないでよ。怖いから…」
「左様ですか。私の怒りはこの店の味次第かもしれません」
雑渡さんはビクビクとしていたけど、美味しいお肉が運ばれてきて私が笑うとホッとした顔をした。そして、料理を食べながら考え込んでいた。多分、この店を買収しようか悩んでいるのだろう。こうして二人で出掛けても常に仕事のことを考えている雑渡さんは偉いと思う。きぃちゃんなら嫌がるだろうけど、私は別に嫌ではない。努力家の雑渡さんらしいと思うし、そんな雑渡さんが私は好きだから。
店を出る頃にはすっかり機嫌が直っていた私は雑渡さんに次はどこへ行くのか尋ねた。どう見てもまだ家に帰るような雰囲気はない。だけど、これ以上どこへ行くのだろうか。
「次はなまえの服を見に行こうかと思う」
「私の?別に家にたくさんありますよ?」
「なまえが倒れた日に着ていたワンピースが裂かれて傷付いていたみたいだから。新しいワンピースを買ってあげよう」
「…気付いていましたか」
私が着ていたお気に入りのワンピースは救急外来で綺麗にはさみを入れられていた。人命のためなのだから仕方ないのことだろうけど、それでも裂かれた事実を知って悲しかった。私が目を覚ました時には既に処分されていたこともあってショックだったけど、はっきりと裂かれたワンピースを見る衝撃に比べればマシだったかもしれない。そこまで分かった上で雑渡さんは多分、処分してくれたのだと分かっていた。
雑渡さんに見立てられた白くて可愛いワンピースの入った袋を持って、ようやく私たちはいつもの駐車場に着いた。ここから3分ほど歩けば、久しぶりの我が家だ。どれだけ荒れているのかと思うと怖かったけど、それでも早く家に帰りたかった。私と雑渡さんの家。大切な思い出が詰まった家。
だけど、雑渡さんは私の手を引いて階段を登り、小さな公園へと連れていった。ベンチとブランコしかない小さな公園。
「わぁ、家が見える。眺めがいいですね」
「ここは昔、あの丘だったんだよ」
「えっ」
「そして、私となまえを陣内に埋めさせた所でもある」
どの辺りなのかまでは流石に分からないけどね、と雑渡さんは地面を眺めながら懐かしそうに笑った。
ここがあの丘。私と雑渡さんが過去に何度も夕陽をみた思い出の丘。私が大好きだった、二人の思い出の場所。それがまさか今は公園となって残っているとは思わなかった。だとすれば、まさか私たちが住んでいるマンションは昔、雑渡さんの家だったのだろうか。遠くにタソガレドキ社も見える。
「…何か、感慨深いですね」
「そうだね」
「不思議ですね、こうしてまたここで夕陽を見るなんて」
「本当ね…ねぇ、なまえ。私はいつかあの夕陽さえもこの手にすることが出来ると思う?」
「…雑渡さんなら手に出来るかもしれませんね」
「昔は出来ないと思った。だけど、今なら出来るような気さえするよ。私の側になまえがいてくれるのならの話だけど」
「いますよ。私はずっと変わらず、雑渡さんの側にいます」
私がそう言うと、そっと腕を掴まれ、微笑み掛けられる。そして、左手の薬指に大きなダイヤの指輪を挿れられた。その輝きから、この指輪が何を意味しているのか分かる。
私がまじまじと自分には不釣り合いなほど高そうな指輪を見ていると、雑渡さんは私を優しく抱き締めてきてくれた。
「私の側にいて。これから先、ずっと」
「い、いますよ…私はあなたが好きなんだから」
「いいや。好きの重さでいえば私の方が絶対に上だね」
「そんなことありませんよ。本当に好きなんですから」
「そう。じゃあ、生涯を掛けて証明して見せてよ。こんなにも愛しいと思える存在に出会えたことは私にとって幸運だった。全てはなまえが私に会いにきてくれたことから始まったことだ。私の世界に色をさしてくれるのは後にも先にもなまえしかいない。これからも私の側で私の人生を彩っていって欲しい。本当に心から私はなまえを愛している。だから、私と結婚して欲しい。なまえと一緒なら私は何だって出来る気がするんだ。私の側でこの街を手にする様を見届けてはくれないだろうか。その代わり、私は持てる力を全て使ってなまえを幸せにする。だから、私をなまえの側に置いて欲しい」
本当に優しい声で私は雑渡さんにまたプロポーズされた。狡い。そんなことを言われたら泣くに決まっているじゃない。ましてや、こんな、過去をなぞられた上に立場が逆転したかのような言われ方をしてしまっては、ときめいてしまう。
あの時、雑渡さんは私に好きとは決して言ってはくれなかった。だけど、私は雑渡さんの気持ちが分かっていたから満足だった。それでも、雑渡さんが出て行けと私を拒むことが怖くなかったわけではない。なのに、今の雑渡さんは私に側にいて欲しいと言う。これ程までに幸せなことが今までにあっただろうか。私の過去からの想いが全て報われていく。
ぎゅうっと雑渡さんを抱き返しながら私が「あなたと出会えてよかった」と言うと、雑渡さんは「私もだよ」と言ってくれた。陽がどんどん沈んでいく。冷たい風が吹いているし、ほんのりと雪が舞っていた。雑渡さんは寒いのが苦手な人だ。だけど、私に優しいキスをしてきてくれた。互いの熱を共有しながら何度も何度もキスをした。そして、お互い白い息を吐きながら顔を見合わせて、子供のように笑い合う。
「帰ろうか」
「はい」
帰ろう。私たちの家に。今も昔も居心地のいい、あの家に帰ろう。そして、たくさん思い出を作っていこう。雑渡さんの家族として、これからたくさん愛を紡いでいこう。
二人で幸せに生きていこう。こんな言いようのない奇跡を奇跡では終わらせず、私たちが出会い、惹かれ合うのは運命だったと証明していこう。大丈夫、私たちなら出来る。時を超えても決して揺るがなかったこの想いは永遠なのだから。
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